December 01, 2017

清瀬義三郎則府先生逝去

言語学者清瀬義三郎則府先生が今年の7月に亡くなられていたことを奥様からの新年欠礼ご挨拶の葉書で知りました。享年86歳だったそうです。

先生は満洲語をはじめ「アルタイ言語」(でいいのか?)の研究者で、私は、A Study of the Jurchen Language and Script: Reconstruction and Decipherment (女真館訳語の研究), Kyoto: Horitsubunka-sha (法律文化社),1977年、『日本語学とアルタイ語学 』/Japanese Linguistics and Altaic Linguistics, 明治書院、1991年.や『満洲語文語入門 』(河内良弘と共編著) 京都大学学術出版会、2002年は、言語学的な成果はよくわからないのですが、先生の研究の基礎には、考古資料の分析があり、とても参考になり、感激しました。ハワイ大学におられるということが著作に書いてあったので、ハワイ大学あてに手紙を書いたら、数年後に姫路からお手紙が来て、何年もかかって転送?されてきたというお手紙をいただき、さらに感激しました。

その後、女真語のことでなんどかおうかがいしましたが、私が学説の引用を間違っていることなど丁寧にご指摘いただきました。

晩年は日本に戻られていたようですが、ハワイをはじめアメリカ在住歴が長く、中国の雑誌では、よく清瀬義三郎則府(美)などと書かれていました。則府とかいて「のりくら」と読むそうです。義三郎はミドルネームなんでしょうか。

清瀬先生の後任のハワイ大学の先生によると、日の丸の鉢巻きをして、毎日日本刀で素振りをしているといううわさがあったそうです。私は手紙でしか交流がなかったのですが、いかにも先生らしいかと思いました。

ご冥福をお祈りします。合掌

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October 08, 2017

松代では真田家は進駐軍?

生まれて初めて今日、松代藩(藩ですぞ)真田十万石まつりを見学しました。

加藤長野市長をはじめ、真田家14代当主真田幸俊氏の歴代藩主役、お姫様から佐久間象山(松代では「しょうざん」じゃなくて「ぞうざん」)まで、ちょっとした時代祭りですね( ´艸`)。

松代だけでなく、上田からも甲冑隊が来てそれなりに盛り上がっていましたが、それにしても、現真田家当主が来ても、長野市長が余裕のよっちゃんだったのは、ここ松代の人はやはり「真田家」には微妙な感じがあるような気がしました。

旧松代藩士の人はいざ知らず、そうではない人たちは、真田さんが来る前の松代という話をよくされます。今年の春、縁あって自分の畑から「和同開珎」が出土したという松代の農家の方を取材させてそういうお話をお聞きしました。改めてそういう話を聞くと、上田じゃ、真田の傍陽あたりの国人が上田に進軍してきて、「郷土」のもとになった近世上田を発展させたというなんとなく身内意識があるような気がしますが、ここ松代では、松代の基礎を作ったのはある意味、真田家なんですが、ここでは幕藩体制の中で、国替えで来た、つまり進駐軍なんですね。お隣のような気もしますが…。

もし、仮に真田家が上田のままで幕末を迎え、今の当主(それも昌幸、信之、信繁の子孫で)が上田にお国入りしたら、上田市長は余裕のよっちゃんじゃないような気もする。なにかあれば、担ぎ出そうとする人ぐらい出そうな気もします。松代の場合、「との~」という声もかかっていたが、現当主幸俊さんが人柄的にかなりよさそうな人に見えましたが、ぜひ、長野市長にということにはならないと思う(現長野市域イコール松代藩領ではないというのもあると思うが…)。

そうしてみると、徳川幕府の国替えというのは、藩というのは、あくまで天下からの預かり物で、神話の時代につながる天から与えられた約束の地ではないことをはっきり支配層にも被支配層にも意識させる出来事だったんだと思う。

井伊家が井伊谷で再興されないで、彦根に行ったのも、古代以来の神話を断ち切るための、幕府の深謀遠慮というかその時代の意識だったんだろう。(なんか司馬遼太郎みたい。o(*^▽^*)o

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October 05, 2017

歴史知と学問論

縁あって、最近、石塚正英先生の学問的成果の一端を知ることができた。

いろいろ自分の身の回りの学問的課題(負債とも言います)が少しは片付いたので、久しぶりにじっくり取り組めそうです。

中でも、「歴史知と学問論」という本を入手できたが、長年なんとなく思っていたことが、氷解していくような内容だった。先生は西洋の歴史哲学の研究を基礎としながら、歴史知や文化史にアプローチされている。

先生の姿勢に共感するのは、身近なところで実践を繰り返し、自分の理論を精緻にしていく部分である。

これは、地域にも分け入っていかねば、なかなか成果は上がらない。

一方で、いわゆるお国自慢的な郷土史研究にとどまらない。日本列島周辺や世界に視野が開かれている。こちらも自分が目指しているところと一致する。

考古学にも先生は関心が深いようである。経験に基づく知識や借り物の理論ではなく、地に足がついた歴史哲学を知りたい考古学者には、一読をおすすめしたい。

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October 01, 2017

嫂婚制の常識・非常識

歌舞伎役者の市川海老蔵さんとなくなった奥さんのお姉さん(義姉)の小林麻耶さんの「再婚」の可能性についていろいろな推測がある。正直いって、芸能人の方が誰と結婚しようと私は、まったく関心がないが、このことについてレビレト婚(もらい婚・逆縁婚)との関連を触れている記事を見つけて(厳密にいうと家内が見つけて)びっくり!

市川海老蔵と小林麻耶で噂される再婚は大河ドラマにも出てくる風習だった!?

記事の中で、歴史に詳しいライターが「配偶者を亡くした亡夫や亡妻が、相手方の兄弟姉妹と再婚することは『もらい婚』と呼ばれ、かつては庶民や武家社会で普通に行われていました。」と述べている。「普通に」というのはどうなんでしょうか。そこらへん知りたいです。

私や私の親戚には、こうした話はよく聞くので、たしかに地域と時代によっては、珍しい話ではないのですが、一方、儒教道徳が普及していた地域(中国・韓国)では、とんでもない話(つまり不道徳なこと)なんです。

儒教道徳から言えば、奥さんの姉妹は義理の姉妹になるから、いくら血縁か否かにかかわらず、近親相姦になる。

ただ、このライターが書いているように、儒教が統治理念として採用された近世でも、もらい婚は行われていたことも確かだし、「普通だ」少なくとも「不倫である」とは考えない人が一定程度、わが国にはいることが確かなのである。

私は、これは江守五夫先生の説にならって東北アジア文化の影響だとみているが、石川県、富山県、新潟県あたりでそういった事例を調査したのがあれば助かるんですが…。ちなみに長野県は、関東地方とならんで結構ありますが、なかなか分布地図を作れるほどではない。なんとか分布図を作りたいのですが、だれかいい知恵ないでしょうか…。

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December 22, 2014

現代や中近世の資料から古代を語れるか

現代や中近世の資料から古代を語れるか?

古くて新しい問題であるが、ある程度語れるというのが、筆者の考えである。無論、いろんな制約や条件はあるのだが…。口碑や寺伝の類は、鵜呑みにはできないが、検討、分析したうえで、参考にすべき点は多々あると思う。

こういうことをやっていると縄文時代の研究は、ますますおろそかになってしまう…crying

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March 02, 2010

新日本辺境論

日本辺境論というと内田樹先生の新潮新書のベストセラーである。

日本人は日本人論に関心がある(つまり外からどう見られているかにものすごい関心がある)が、すぐその日本人論を忘れてしまう。などなるほどと思う指摘が満載である。学術書ではないから、どこまで学問的根拠があるか私にはよくわからないが一気に読ませてもらえた。

日本人はどこかに世界の中心があって、自分たちはその世界の「辺境」にある考え(というかモデル)を持ち続けているという。

これはなるほどと思う。中国はもちろん中華思想のクニなので、当然中国が中心であるが、実は中国国内でも同じような自分の郷土中心主義がある。西安や上海あるいは香港の人は北京を中国の中心とは思っていない。もちろん政治・行政の中心であることは認めるが、文化的に自分たちが北京に追随すべきとは思っていない。むしろ都市と農村という対立の方が深刻である。

その点日本は、いかに地方の時代といっても、東京に対抗するような軸はなかなか見出しにくい。京都や大阪があるという人もいるかもしれないが、それは東京というよりは関東と関西といったような、ちょうど中国でいうと北方人と南方人の対立のようなものである。100歩譲って大阪はよいとしても、名古屋、札幌、福岡ぐらいだとどうだろうか。最初から地域の首都を目指すというスタンスの気がする。

韓国はより日本タイプを先鋭化していて、一見ソウル中心主義である。釜山は対抗軸にはなっていない。東京と名古屋みたいな感じか。ただ、朝鮮半島全体でみれば平壌という対抗軸がある。

さて、話はそれたが、どこかに中心が一つだけあるというのではなく、いくつかの勢力がせめぎ合って、その勢力の狭間としての「辺境」があるというモデルがある。

話は飛ぶが、ドイツでは、日本人は一元論的で、ヨーロッパは二元論的だと言われ、一瞬耳を疑った。キリスト教は一神教で、神道は多神教なので、日本の方が、多元的ではないのかと私は思っていたからだ。

そうではないらしい、ものの考え方がそうなのらしい(少なくともドイツ人にはそう見えるのか…)。ヨーロッパ人は神と悪魔、善と悪というように二極を設定して、その中で座標を作ってものを考えるのが得意ということらしい。(悪魔も神の被創造物だとしても)

日本は多元的であるがゆえに、むしろ思考の方法としては巨大な中心があって、そこに小さいものが付随していくというモデルを作ってしまうのか…。

その点、実は韓国は朱子学の影響か、極めて二元論的である。

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October 12, 2009

天皇家の文化と日本文化

何度も繰り返しているのかもしれないが、日本文化とは何かという時に、天皇家の文化を日本文化の中心や本質と自明として考えるのはやめたほうがよくないか。少なくとも両者を分けて考えたほうがよいことがある。

日本列島の主体となす集団の風習や文化こそがある意味「日本文化」というべきであり、天皇家の文化もその一部分であるが、はたしてその核であるかは別である。イギリス文化の中に英国王室の文化があるが、かといってすべてのイギリスの文化要素の濫觴が少なくとも英国王室の文化とは限らない気がする。

イギリスのことはよくわからないが、日本のことでいえば、日本の少なくとも下々や天皇家以外の人にとって当たり前のことが、天皇家では当たり前ではない。

たとえば、徹底的な男系相続主義は、日本固有の文化ではない。庶民はもちろん、男系相続主義に一見見える武士や公家も婿養子は平気というか倫理から外れているわけではない。天皇制の男系相続主義を儒教(あるいは漢民族の習俗)の影響と見る向きもあるかもしれないが、儒教は、単なる男系相続主義ではない、そこにはちゃんと順位がある。直系男子しか相続できない。なぜなら先祖の魂を呼べるのは長男(あるいはその直系の孫)であり、長男が絶えた場合により近い男子が次ぐシステムである。この点、日本の天皇制は血統重視ではあるが、かならずしも直系優先ではない。明治以降は皇位継承の順位がはっきりしたが、前近代においてははっきりしていない。

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February 14, 2009

ようやく役に立った醒世恆言

知り合いのお店の人(中国人)から歴史が好きなら、この本を読んでみたらと、勧められたのが
「醒世恆言」

「ただ、面白い話もあるけど、つまんないのもあるから、貸してあげるから、それで買うかどうか判断してもいいよ」と言われたのだけどなんだか忘れてしまいそうだし、ポケット判で値段も安かったので、購入してみた。

ざっと見てみると、なんだか古典的な漢文のようでもあるが、現代の中国語とも似ている。

たとえば
定哥笑道:「你這妮子真個害風了!我無男無女,又沒姑娘小叔,女待詔來替那個做媒?」(金海陵縱欲亡身)なんて部分があるが、なんとなく現代中国語風な感じがする。だけど、意外とさっと読めそうで読めないし、とっつきにくくて約1年間ほっておいた。

ところが、たまたま「金虜海陵王荒淫」のざっと内容を知る必要が出てきたところ、なんと「醒世恆言」の「金海陵縱欲亡身」がだいたいおんなじなんだそうだ(もちろん厳密には違うらしいが、おおよそのあらましを知るには十分らしい)。

インターネットでも探せそうだけど、「醒世恆言」が家にあることを思い出した。うーむようやく本気になって読んでみる。まあよくはわからないが、「金史」の本紀の海陵王の部分より、なんか会話調になっていて、ずっと親しみやすい(正史の「三国志」と小説の「三国演義」の関係のようなものなのか)。

常識的には正史が正しいのだろうけど。魯迅先生のいういように、こういう稗史にも見るべきものがあるそうだ。正史は正史で時の権力者におもねるから、そういう部分を注意しないといけない(「吾妻鏡」と「平家物語」の関係。前者は北条氏におもねっているとのこと)。


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September 26, 2008

金髪の山賊

網野善彦先生の研究によると、鎌倉時代の末に描かれた『男衾三郎(おぶすまさぶろう)絵詞』に金髪の山賊が登場するという。長野の商工会議所だよりに網野先生のインタヴューがのっているので、興味がある方はドーゾ。

その肝心の場面が国立東京博物館の電子アーカイブにあるという。非国民研究開発・異形の山賊より

網野先生ほか皆さん大陸とくに北東アジアとの関係を重視されています。私もそう思います。

鎌倉時代とほぼ同時期の北東アジアに黄頭女真というのがいることが、三朝北盟会編や松漠紀聞などに紹介されています。彼らは頭髪が黄色(つまりブロンド?)というだけでなく、眼は青(緑)だったそうです。それになんと完顔部ら女真人主流派もびっくりの勇猛果敢な人たちだったらしい…。

くだんの金髪の山賊は、黄頭女真の流れをくんだ人ではないか(ほとんど妄想です)。ちなみに黄頭室韋というのもいるらしい。金髪の北方民族が、日本に来たとすると面白い。

ただ、山賊がいたのが遠江国なんで、簡単に日本海を渡ってきたともいえそうにありませんが…。


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August 02, 2008

金史と聖書

 諸事情があって?ずっともう4年になるか、金史を読んでいる。最初は漢文が読めないのに中国史を調べたいという無謀な人の依頼で見ていたのだが、最近はなるほど金史自体が結構面白いのだ。実は、二十四史の中のどんな史書でも通読ということをしたことがなかったので、今回通読してみて、これらの本は通読を期待して書かれていることに改めて気がついた。最初から読んでいき、年代やいろんなことが頭に入ってきて、最後伝記が面白くなるようになっている。もちろんいきつ戻りつするのが、普通だとは思うが。

 それに他の史書を通読していないので、比較できないが、二十四史の中で金史は史料はあるいは元に滅ぼされて散逸したりということがあったかもしれないが、内容自体はよく出来ているのではないか。これまた通読してはいないのだが、どうも同じ元が編纂した遼史が今一なんだなあ…。(個人的には本来女真より契丹のファンだったはずなんだが…)

 また金史に関連して、大金国志や三朝北盟会編なんて本がまたまた金史のないところを補って、いろんな話を載せていて楽しい。

 正史にはないのだが、海陵王が、南宋を征服しようと思い立って、南宋の使節の中に絵描きをひそかに忍び込ませて、臨安(南宋の首都)の近くの西湖や呉山の風景を描かせた。そして、その絵に自分の姿、とくに呉山の最高峰には馬を立たせたというからまさに征服の意欲まんまんというところだろう。海陵王が南宋の文物にあこがれ、征服しようとする姿がうまく描かれているエピソードだと思う(これが歴史的事実かは知りません)

 はじめはよくわからなかったが、金史(だけでないが)こうした史書はよくわからないエピソードの連続である。しかし、こうした様々なエピソードがあとで発生する歴史的事件や結末に収れんしていくさまは本当に大河ドラマそのものだ。本筋は金の皇帝の歴史だが、皇帝の歴史だけでは正史はなりたたない、いろんな群像が折り重なって、様々な伏線となって出たり入ったりして、最後は王朝が滅んでおしまいとなる。こうした歴史の叙述法は司馬遷の発明らしい?(史記が最初だったか?間違っていたらすみません)。なるほど司馬遼太郎が司馬遷には遼(はるかに)及ばないとペンネームをつけたんだな。司馬遼太郎の歴史小説もこういう感じがする。(いくつもの物語が交錯する)

 さて、正史はもちろん通読を期待しているのだろうが、途中から読んでもわからないわけではない。ここが司馬文学と違うところだ。これってどこかでこういう本を読んだことがあるなあー。それはなんと私は聖書が似た構造になっているんじゃないかと思う。聖書は日曜日教会で端から読んでいるわけではない。牧師さんの趣味?もあるのだろうか、あっちいったりこっちいったりことが多い。さすがにクリスマス前とかイースター前はそれに絡むところをだんだん読むことが多かったが…。

 四福音書をマタイ伝とかマルコ伝と訳した漢訳聖書の人たちの気持ちがわかるなあ。とくに旧約聖書は本当に中国の正史風である。中国人にそのあたり聞いてみたい(聖書をみると自分たちの正史とどこか通じるところがあるのかどうか)。

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