December 22, 2014

現代や中近世の資料から古代を語れるか

現代や中近世の資料から古代を語れるか?

古くて新しい問題であるが、ある程度語れるというのが、筆者の考えである。無論、いろんな制約や条件はあるのだが…。口碑や寺伝の類は、鵜呑みにはできないが、検討、分析したうえで、参考にすべき点は多々あると思う。

こういうことをやっていると縄文時代の研究は、ますますおろそかになってしまう…crying

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March 02, 2010

新日本辺境論

日本辺境論というと内田樹先生の新潮新書のベストセラーである。

日本人は日本人論に関心がある(つまり外からどう見られているかにものすごい関心がある)が、すぐその日本人論を忘れてしまう。などなるほどと思う指摘が満載である。学術書ではないから、どこまで学問的根拠があるか私にはよくわからないが一気に読ませてもらえた。

日本人はどこかに世界の中心があって、自分たちはその世界の「辺境」にある考え(というかモデル)を持ち続けているという。

これはなるほどと思う。中国はもちろん中華思想のクニなので、当然中国が中心であるが、実は中国国内でも同じような自分の郷土中心主義がある。西安や上海あるいは香港の人は北京を中国の中心とは思っていない。もちろん政治・行政の中心であることは認めるが、文化的に自分たちが北京に追随すべきとは思っていない。むしろ都市と農村という対立の方が深刻である。

その点日本は、いかに地方の時代といっても、東京に対抗するような軸はなかなか見出しにくい。京都や大阪があるという人もいるかもしれないが、それは東京というよりは関東と関西といったような、ちょうど中国でいうと北方人と南方人の対立のようなものである。100歩譲って大阪はよいとしても、名古屋、札幌、福岡ぐらいだとどうだろうか。最初から地域の首都を目指すというスタンスの気がする。

韓国はより日本タイプを先鋭化していて、一見ソウル中心主義である。釜山は対抗軸にはなっていない。東京と名古屋みたいな感じか。ただ、朝鮮半島全体でみれば平壌という対抗軸がある。

さて、話はそれたが、どこかに中心が一つだけあるというのではなく、いくつかの勢力がせめぎ合って、その勢力の狭間としての「辺境」があるというモデルがある。

話は飛ぶが、ドイツでは、日本人は一元論的で、ヨーロッパは二元論的だと言われ、一瞬耳を疑った。キリスト教は一神教で、神道は多神教なので、日本の方が、多元的ではないのかと私は思っていたからだ。

そうではないらしい、ものの考え方がそうなのらしい(少なくともドイツ人にはそう見えるのか…)。ヨーロッパ人は神と悪魔、善と悪というように二極を設定して、その中で座標を作ってものを考えるのが得意ということらしい。(悪魔も神の被創造物だとしても)

日本は多元的であるがゆえに、むしろ思考の方法としては巨大な中心があって、そこに小さいものが付随していくというモデルを作ってしまうのか…。

その点、実は韓国は朱子学の影響か、極めて二元論的である。

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October 12, 2009

天皇家の文化と日本文化

何度も繰り返しているのかもしれないが、日本文化とは何かという時に、天皇家の文化を日本文化の中心や本質と自明として考えるのはやめたほうがよくないか。少なくとも両者を分けて考えたほうがよいことがある。

日本列島の主体となす集団の風習や文化こそがある意味「日本文化」というべきであり、天皇家の文化もその一部分であるが、はたしてその核であるかは別である。イギリス文化の中に英国王室の文化があるが、かといってすべてのイギリスの文化要素の濫觴が少なくとも英国王室の文化とは限らない気がする。

イギリスのことはよくわからないが、日本のことでいえば、日本の少なくとも下々や天皇家以外の人にとって当たり前のことが、天皇家では当たり前ではない。

たとえば、徹底的な男系相続主義は、日本固有の文化ではない。庶民はもちろん、男系相続主義に一見見える武士や公家も婿養子は平気というか倫理から外れているわけではない。天皇制の男系相続主義を儒教(あるいは漢民族の習俗)の影響と見る向きもあるかもしれないが、儒教は、単なる男系相続主義ではない、そこにはちゃんと順位がある。直系男子しか相続できない。なぜなら先祖の魂を呼べるのは長男(あるいはその直系の孫)であり、長男が絶えた場合により近い男子が次ぐシステムである。この点、日本の天皇制は血統重視ではあるが、かならずしも直系優先ではない。明治以降は皇位継承の順位がはっきりしたが、前近代においてははっきりしていない。

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February 14, 2009

ようやく役に立った醒世恆言

知り合いのお店の人(中国人)から歴史が好きなら、この本を読んでみたらと、勧められたのが
「醒世恆言」

「ただ、面白い話もあるけど、つまんないのもあるから、貸してあげるから、それで買うかどうか判断してもいいよ」と言われたのだけどなんだか忘れてしまいそうだし、ポケット判で値段も安かったので、購入してみた。

ざっと見てみると、なんだか古典的な漢文のようでもあるが、現代の中国語とも似ている。

たとえば
定哥笑道:「你這妮子真個害風了!我無男無女,又沒姑娘小叔,女待詔來替那個做媒?」(金海陵縱欲亡身)なんて部分があるが、なんとなく現代中国語風な感じがする。だけど、意外とさっと読めそうで読めないし、とっつきにくくて約1年間ほっておいた。

ところが、たまたま「金虜海陵王荒淫」のざっと内容を知る必要が出てきたところ、なんと「醒世恆言」の「金海陵縱欲亡身」がだいたいおんなじなんだそうだ(もちろん厳密には違うらしいが、おおよそのあらましを知るには十分らしい)。

インターネットでも探せそうだけど、「醒世恆言」が家にあることを思い出した。うーむようやく本気になって読んでみる。まあよくはわからないが、「金史」の本紀の海陵王の部分より、なんか会話調になっていて、ずっと親しみやすい(正史の「三国志」と小説の「三国演義」の関係のようなものなのか)。

常識的には正史が正しいのだろうけど。魯迅先生のいういように、こういう稗史にも見るべきものがあるそうだ。正史は正史で時の権力者におもねるから、そういう部分を注意しないといけない(「吾妻鏡」と「平家物語」の関係。前者は北条氏におもねっているとのこと)。


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September 26, 2008

金髪の山賊

網野善彦先生の研究によると、鎌倉時代の末に描かれた『男衾三郎(おぶすまさぶろう)絵詞』に金髪の山賊が登場するという。長野の商工会議所だよりに網野先生のインタヴューがのっているので、興味がある方はドーゾ。

その肝心の場面が国立東京博物館の電子アーカイブにあるという。非国民研究開発・異形の山賊より

網野先生ほか皆さん大陸とくに北東アジアとの関係を重視されています。私もそう思います。

鎌倉時代とほぼ同時期の北東アジアに黄頭女真というのがいることが、三朝北盟会編や松漠紀聞などに紹介されています。彼らは頭髪が黄色(つまりブロンド?)というだけでなく、眼は青(緑)だったそうです。それになんと完顔部ら女真人主流派もびっくりの勇猛果敢な人たちだったらしい…。

くだんの金髪の山賊は、黄頭女真の流れをくんだ人ではないか(ほとんど妄想です)。ちなみに黄頭室韋というのもいるらしい。金髪の北方民族が、日本に来たとすると面白い。

ただ、山賊がいたのが遠江国なんで、簡単に日本海を渡ってきたともいえそうにありませんが…。


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August 02, 2008

金史と聖書

 諸事情があって?ずっともう4年になるか、金史を読んでいる。最初は漢文が読めないのに中国史を調べたいという無謀な人の依頼で見ていたのだが、最近はなるほど金史自体が結構面白いのだ。実は、二十四史の中のどんな史書でも通読ということをしたことがなかったので、今回通読してみて、これらの本は通読を期待して書かれていることに改めて気がついた。最初から読んでいき、年代やいろんなことが頭に入ってきて、最後伝記が面白くなるようになっている。もちろんいきつ戻りつするのが、普通だとは思うが。

 それに他の史書を通読していないので、比較できないが、二十四史の中で金史は史料はあるいは元に滅ぼされて散逸したりということがあったかもしれないが、内容自体はよく出来ているのではないか。これまた通読してはいないのだが、どうも同じ元が編纂した遼史が今一なんだなあ…。(個人的には本来女真より契丹のファンだったはずなんだが…)

 また金史に関連して、大金国志や三朝北盟会編なんて本がまたまた金史のないところを補って、いろんな話を載せていて楽しい。

 正史にはないのだが、海陵王が、南宋を征服しようと思い立って、南宋の使節の中に絵描きをひそかに忍び込ませて、臨安(南宋の首都)の近くの西湖や呉山の風景を描かせた。そして、その絵に自分の姿、とくに呉山の最高峰には馬を立たせたというからまさに征服の意欲まんまんというところだろう。海陵王が南宋の文物にあこがれ、征服しようとする姿がうまく描かれているエピソードだと思う(これが歴史的事実かは知りません)

 はじめはよくわからなかったが、金史(だけでないが)こうした史書はよくわからないエピソードの連続である。しかし、こうした様々なエピソードがあとで発生する歴史的事件や結末に収れんしていくさまは本当に大河ドラマそのものだ。本筋は金の皇帝の歴史だが、皇帝の歴史だけでは正史はなりたたない、いろんな群像が折り重なって、様々な伏線となって出たり入ったりして、最後は王朝が滅んでおしまいとなる。こうした歴史の叙述法は司馬遷の発明らしい?(史記が最初だったか?間違っていたらすみません)。なるほど司馬遼太郎が司馬遷には遼(はるかに)及ばないとペンネームをつけたんだな。司馬遼太郎の歴史小説もこういう感じがする。(いくつもの物語が交錯する)

 さて、正史はもちろん通読を期待しているのだろうが、途中から読んでもわからないわけではない。ここが司馬文学と違うところだ。これってどこかでこういう本を読んだことがあるなあー。それはなんと私は聖書が似た構造になっているんじゃないかと思う。聖書は日曜日教会で端から読んでいるわけではない。牧師さんの趣味?もあるのだろうか、あっちいったりこっちいったりことが多い。さすがにクリスマス前とかイースター前はそれに絡むところをだんだん読むことが多かったが…。

 四福音書をマタイ伝とかマルコ伝と訳した漢訳聖書の人たちの気持ちがわかるなあ。とくに旧約聖書は本当に中国の正史風である。中国人にそのあたり聞いてみたい(聖書をみると自分たちの正史とどこか通じるところがあるのかどうか)。

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January 23, 2008

二人の「好古」

日露戦争時、騎兵を率いて、日本の勝利に貢献した秋山兄弟の兄の名が「好古」というが、一般に『論語』述而篇の子曰「我非生而知之者。好古敏以求之者也。」あるいは子曰「述而不作。信而好古。」からの引用と言われているようで、有名な一節であるので、私もそれはそれで正しいのだろうと思う。

おそらく偶然の一致だろうが、金末の詩人元好問の兄に好古がいる。この場合、元家の通字あるいは世代を示す行列字のようなものかもしれないが、元好古の名もあるいは論語のこの一節を踏まえているのかもしれない。

論語は中国でも、日本でも有名な古典であるので、こういうことは十分ありうると思うが、さて、ここで述べたいのはそのことではない。元好古は、金末期の軍人であったらしく、モンゴルの侵入時に戦死しているらしい。弟の好問は詩人として有名であったので(また軍人ではなく、文人であったこともあったのだろう)、元には仕えなかったが、助命されている。

秋山兄弟がこの故事を知っていたか、知りたいところである。


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December 29, 2007

便利帖にいれたいHP

近年飛躍的に進歩中の?東北アジア研究に便利なホームページを二つ発見。

http://skkucult.culturecontent.com/
海東盛国渤海
渤海関係の典籍にあたれて便利。
コンテンツの関連文献には旧唐書、冊府元亀などの画像データあり。

http://seiwatei.net/index.htm
青蛙亭漢語塾
漢文学習には便利なHP

皆様もご活用ください。

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December 02, 2007

国とクニ

国とクニは本来別概念であったということを過日述べた。ただ、おそらくクニが「郡」という言葉が日本語化してできたものであったとすると混同しやすい概念でもあっただろう。

さて、起源論はともかくどちらが上位概念であったか。『隋書倭国伝』に従えば、都斯麻国、一支国、至竹斯国、秦王国という具合に国は限定されているのに、軍尼は120人というのだから、クニの方が多かった。クニは国造のこととも言われているが、まあ後の律令の郡レベルではなかったか。

とすると7世紀(あるいは6世紀後半)には国>クニではなかったか。ツシマやイキのように弥生時代の「国」規模のままの地域もあるがツクシ国は弥生時代の奴国や伊都国そのものではなく、九州島あるいは北九州全体の国であったろう。

魏志倭人伝の頃の構造も実は似たようなものではなかったか。対馬、一支、伊都、奴などの国はおそらく律令の郡レベルの大きさであり、例外的なのが邪馬台国であったろう。それでも列島の倭人社会を邪馬台国だとは決して言っていないので、どう考えても邪馬台国は隋書倭国伝の国規模であって、九州島全体やいわんや西日本全体を統合した国ではなかったろう。

そうしてみると、赤い土器の「クニ」というのが桁外れに大きいことがわかる。邪馬台国に匹敵する規模なのである。仮に赤い土器のクニの実体があったとしても、邪馬台国支配下の一国のような規模だとは私は考えない。邪馬台国に匹敵する例えば狗奴国レベルではなかったか。(内実はともかくとして、領域的には)

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December 01, 2007

那須国造碑と上野三碑と百済王氏

先日の日本玉文化研究会栃木大会の現地見学会で、那須風土記の丘湯津上分館へうかがい、会実行委員会と学芸員さんのご好意で、侍塚古墳と那須国造碑を見学できた。

見てびっくりしたのは、那須国造碑は日本最古であるだけでなく、その保存状態が極めてよいことだ。

あらためて感じたのは、多胡碑との類似性である。同じ古代東山道ルート上にあることから似ていてある意味当然である。

それぞれ紀年がある。那須国造碑は永昌元年(則天武后:689年)から11年後の庚子歳(700年)に那須国造韋提が死去し、その直後に建立されたとすれば8世紀初頭、多胡は711年に多胡郡建郡のことが見えるので、8世紀前半以降の建立となろう。つまり、那須国造碑を参考にして多胡碑を建立したと考えるのが自然だろう。

それぞれこうした碑を建立した背景にはそれぞれの地元勢力の助力が無ければ建立は難しかったと思われるが、こうした形式の碑を日本で建立するノウハウを有していたのはいわゆる朝鮮半島系(渡来系)氏族のかかわりがなかったと考える方が難しいだろう。(もちろんそんなことを言っている人はいない)

では、その渡来系氏族が誰かとなると、なぜかどちらも新羅系という言葉が出てくる。新羅系の土器が出ているという意見ではあったが…。

新羅系土器が仮に出土しているとすればそれは考古学的には一つの見識である。しかし、私はそうした細かい遺物の検証と同時に遺跡からも考えてはどうかと思う。

この時代の渡来系氏族がかかわった最たる遺跡とはそれはうたがいもなく寺院であろう。それと石碑の建立をもう少し大きい範囲で見てはどうかというのが私の提案である。

どういうことかというと、建碑の直接的な動機や背景はそれぞれの郡レベルの都合であるが、こういう文章をいれた碑を建てるという背景は、その郡レベルだけとは考えにくい。

それは寺院にもいえる。勿論寺院の場合もピンきりであろう。豪族の氏寺として従来作っていた古墳のかわりに造営されたレベルから畿内系の瓦を用いて、郡を越えるような範囲の勢力によって建立されたものまでいろいろである。

下野の場合、那須国造碑におそらく先行して下野薬師寺が建てられている。下野薬師寺は鬼怒川流域で、那須国造碑は那珂川流域で同じ下野国とはいっても別地域であるそうだが、郡を越えて行うような事業を背景にしていたとすれば、単なる地域勢力だけの力ではないだろう。(在地の勢力の力は侮れないのであるが)

かといってヤマト王権のおかげですというのも、東京のテレビが全国で見れますといっているのと同じで、本当の歴史的背景に迫っている気がしない。私はこうした奈良時代以前(おそらく奈良時代後も)の広域の新しい文化の導入にはいわゆる渡来系氏族とくに百済系の人たちの力が大きかったと思われる。とくに新羅系や高句麗系の人たちは、国司などを歴任するような人はほとんどいないのに対し、百済王氏は何人もの人を輩出している。

現代にたとえて言えば、高速道路をそもそも計画するのは国や国土交通省であるが、実際に建設に携わっているのは道路会社(ネクスコ)であり大手JVである。しかし、現場で実際に働いているのは私達のような出先であったり、中小建設会社なども参加している。

この図式が石塔や寺院にもいえないか。天皇やヤマト王権が企画して、地域豪族が受け持つのであるが、様々なノウハウや技術者をアレンジして、導入するのが渡来系氏族、とくに百済王氏の役割を重要視していいのではないか。百済王氏は現在のネクスコやその前身の日本道路公団的存在に私には思える。

道路公団の毀誉褒貶はまだ定まっていないが、戦後の高速道路整備をもし道路公団抜きに語れないように、東山道沿いの畿内系瓦を出土する寺院や石碑・石塔の建設に百済王氏がまったく携わっていなかったとは私には思えなくなってきているのである。

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