October 11, 2017

トクサ技法?

玦(ケツ)状耳飾、C字形をしたリング(slit ring)は、今から約7,500年前に日本列島に出現した。九州ではアカホヤ火山灰の下層から出土しているというからこれが同じ系統のものなら、さらにさかのぼることになるが、今一実態がわからない。

さて、現在、耳飾りではないという説もあって、玦飾(けつかざり)なる用語も使われているが、もともとC字形のリングをケツに似ているとしたのが、あまりよくない考古学用語命名法なのだが、一旦、人口に膾炙した用語を直すのは容易ではない。玦飾と聞いてすぐなんのことかわかり人もあまりいないだろう。石環の方がまだ、よかったかもしれない。

ここでは、従来言われているようにケツ状耳飾りで通すが、これの作り方がここ数年だいぶわかってきた(というか研究は古くからあったのだが、自分で検証するまでに至らなかった)。

糸で石を切る糸切技法、糸を弓状の工具で張って石を切断する弓切技法、縄文時代の石器製作ではおなじみの擦切技法などが用いられている。

中でもスリット(切れ目)を入れる技術ではなくて、ちょうどサンドペーパーで粗削りするように、縄文時代の玉製品の加工に「トクサ」がサンドペーパーのように用いられていることが、堀江武史さんの研究で分かっている。

昨年、北海道からトクサを送ってもらって我が家の庭に植えて、育てたトクサで滑石を削って(こすって)みて、ちょっとした実験考古学をやってみた。うちの子どもも手伝ってくれて、トクサとスギナが仲間だとかなんとか、違う方に脱線しつつも、興味を持ってくれた。

たぶん、縄文時代は非常にありふれていたと思われる野生のトクサが今、長野県では、簡単にとってこれなくなっている。あることはあるが、国立公園などの中にしか生えていなくて、絶滅危惧種になりそうな勢いらしい。ところが、最近、近くのホームセンターで見つけた。トクサを庭に植える人がいるらしい。うちもやってみるか!

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October 05, 2017

縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか

北海道の大島直行さんのご労作「縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか

地面に掘られた穴=人間が生まれてきた穴(子宮)ということらしい…。

大島先生の説はさておき、私の妄想は以下のとおり。

私は、地下は他界だからだと何となく思っています…。

縄文人は、自分たちのトーテムをヘビやカエルだと思っていた。古代や中世にも諏訪信仰にかかる甲賀三郎が地底の竜だったりするのは、人は他界へ行くと(つまり死ぬと)ヘビになるという信仰が残っていたんでしょうね。一方、弥生時代以降のトーテムはずばり「トリ」なんではないでしょうか。死ぬと鳥になる。ヤマトタケルはハクチョウに、仁徳天皇はもともとササギ(ウグイス)だったが、死後はモズになったのか…(ここらへんかなり適当)。

キリスト教ほどではないけれど、仏教が入ってきて、こういう素朴なアニミズムみたいなものは、伝説になっていったのかと思います。

ちなみに、今日、我が家のガラスにハトが激突して亡くなったということがありました。早速子どもがお墓を作って埋めたのですが、開口一番、「なんで動物の遺骸を埋めるのか」。川に流したり、ごみに捨てたりはしないのは、やはり、ハトの気持ちになったのではなく、私自身がそうされたくないからなんでしょうね。合掌。

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September 28, 2017

唐章懐太子墓墓道壁画「客使図」の鳥羽冠使者

鳥羽を付けた冠の使者はどこから来た人なのか。諸説あるらしい。日中友好の時代には、日本からの使節という説もあったらしいが、今有力なのは、新羅、高句麗、渤海というところらしい。そこらへんは専門の先生にお任せするとして、なんの鳥の羽なのかがわかると興味深い。それこそ民族精神の象徴のはずだからだ。

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November 03, 2010

オンドル状遺構と炕(カン)

西日本や北陸でカマドから溝が延びている遺構が検出されることがある。溝(煙道)の平面形がL字形になっているものは「L字カマド」などとも呼ばれる。

L字カマドと呼称すれば、カマドの一種という扱いであるが、中にはL字ではなく「コ」字状になるものがある。コ字状になるものは、カマドというよりは一種の暖房施設であるとも考えられ、普通のカマドの煙道より長く延長されたものを「オンドル状遺構」と呼称する場合もある。

この「オンドル状遺構」という用語であるが、私はあまり適切ではない気がする。現在韓国で「オンドル」というと、カマドの暖気(煙や暖気)が床下を通って外に排出される、今風にいえば一種の床暖房である。ただ、この現在のオンドルの起源がこうしたカマドの煙道を延長したような施設にある可能性が高いので、オンドル「状」遺構と呼んでいるようだ。

この用語韓国ではすでに一般的である。日本やロシア沿海州でオンドル状遺構が出土したというような記事は韓国の一般紙でも見ることができる。この用語韓国の愛国心の発露でもあり、オンドル状遺構が出れば韓国文化の影響と言いたいのかもしれない。

ただ、日本でも今風のオンドルの印象が強いので、竪穴住居跡の床面に溝がほられ、それが煙穴になっているようなものを「オンドル状遺構」と呼ぶと、一般には誤解を招くような気がする。

実はもっとよい用語がある。朝鮮半島以外にもこの手の暖房施設(カマドの排出熱を住居内暖房に活かそうするもの)はある。ロシア沿海州だけでなく、むしろ中国東北部さらには華北にもある。

中国東北部のものは歴史的に有名で「炕」(偏火旁亢、カン、日本の漢字音ではコウ)と呼ばれてきた。ロシア考古学でもカン(кан)と呼ぶ。カンは火(煙)の通る坑(長細い穴)の意味であるから、床の有無は関係ない。

現在の中国東北部でもカンは使われているが、ベッドや壁の中を土管のようなものが通って暖房するようになっている(床全体を暖める韓国のものとは異なる)。

ロシア考古学では、平面形からГ(ゲー)字のものとП(ペー)字に分け、前者を高句麗型、後者を満洲型と分ける人もいる。

こうして見るとカマドにつながる煙道を暖房に利用するような遺構は、オンドル状遺構と呼ぶよりはカン状遺構と呼ぶ方がより適切と私は思う。

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October 08, 2010

騎馬民族征服王朝説の根本的問題

騎馬民族征服王朝説を考古学的に見たときの根本的問題は、一つはいかに歴史的に大事件といっても、考古学では検証しにくいことは多い。たとえば関ヶ原の戦いはその後の日本の行方を左右したが、これ自体を考古学的に証明?するのは難しい。

今一つは、北東アジアの文化的影響は旧石器時代や縄文時代以来連綿とあるわけで、ある特定の時期それもある特定の政治的な事件、日本列島の征服ということで説明できるかというと、仮にそうしたことがあったとしても、おそらくそれだけではないと思われることまで、すべて騎馬民族が日本に侵入して王朝を建設したということに付会しがちだということである。

北東アジア文化の影響は、古墳時代にもあった。さらにそれは人間集団の移動を伴うものであったことまでは、考古学的に検証することはよいが、それがいかなる政治的背景があったかは、考古学だけの研究では難しいのである。ではどうしたらよいか。

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October 07, 2010

難題「弥生文化」

弥生文化は苦手である。と思ったらそういう人は結構いるらしいので少し安心。逆にその分縄文や古墳が分かっているのかというと決してそうではないが…。

とにかく今言えそうなことは、弥生時代や文化というのは、主に水田稲作農耕に伴う文化という近代日本考古学の定義によるものであって、他のくくりや定義をすれば違う時代や文化の設定はできはしないかということだ。

弥生土器の様式は確かに前期から後期まで、縄文土器研究者からみると一貫性がある(とくにセット関係)。しかし、一方で、前半は石器時代で後半は青銅器・鉄器時代である。

水田稲作は私の見るところではアジアの中ではどちらかというと南方起源に思えるが、弥生文化の精華とでもいうべき青銅器や勾玉、さらにそれに伴う祭祀は北方的である。

縄文時代や文化もアジアの南北の文化が錯綜しているが、文字通り錯綜していそうで、そのことを持って縄文時代や文化を二分することは難しそうだが、弥生時代や文化は転機があるような気がする。とくに長野県域を含む東日本では、はっきり見えてきそうな気がするがどうだろうか…。

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October 04, 2010

考古学と言語学

長田夏樹先生の本「邪馬台国の言語-弥生語の復元-」が学生社から出ていて、旅先(春日井)で衝動買い。長田先生はヨメが翻訳している女真文化研究の本でおなじみの高名なモンゴル語や満洲語(アルタイ語?)研究者である。出版のいきさつは本のあとがきにも娘さんが詳しく書かれているが、まさに長田先生が死の間際にまとめたもの。弥生語の復元と言っているが、古代日本語や言語学の方法論がわかりやすく書かれている。語学マニアにはおすすめ(考古学者に読めといっても読まないだろう)。

長田先生は長野県の出身だったのか…。インターネットの記事を見て知る。ご健在のうちに謦咳に接したが、縁無く残念である。

邪馬台国やいわゆる「魏志倭人伝」に見られる地名や人名は、九州の方言の特徴が見られるとする。あと、私にとって無視できないのは、長田先生に限らないが、言語学者による弥生時代の後半にはすでにアルタイ語(というものが成立するとすれば)の影響が無視できないという説である。古墳時代に到来したいわゆる「遊牧騎馬集団」が日本列島に到来する前に、北東アジアの文化的要素が色濃く見られるということである。

倭人の文化に北東アジアの影響がどの段階ではいってきたのか。弥生時代の頭からなのか、途中なのか。このことはまたじっくり考える必要がある(今の言語学ではわからない)。

さて、言語学は人文系の学問といっても、歴史学徒にはとっつきにくいためか、日本の考古学者には、はったりの学問と見る向きもあるようだ。しかし、私はちゃんとした学問であると思っている。すぐれた言語学者の業績には注目すべきである。もちろんその学問自体の方法論的な制限があって、言語学だけですべて過去の民族や集団の歴史がわかるわけではない(そのためだけに発達した学問でもない)。

しかし、私が言語学に注目するのは、言語学は過去の人類が無意識に残したいろいろな言語学的な資料からいろいろな歴史的情報が引き出せるのである。おそらくそうした資料を残した本人たちが夢にも思わない。このことが極めて重要なのだ。

文献史料はどうしても、その人間や集団が恣意的に行ったものに惑わされる可能性がある。権力を正統化するというような大げさなものばかりでもなくて、人は本質的に本当のことはかけない。山本夏彦翁曰く「人皆飾って言う」これを「ウソ」だと特筆するのはたやすいが、人間の性質なんだからしょうがない。その性質を知った上で研究するしかない。そのために言語学やそして考古学は重要な学問なんだと思う。

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September 12, 2009

サメの歯の装身具

佐古先生が拙文を紹介してくださっている。

http://onnagumi.jp/annakonna02/dai122kai.html

サメの歯の話だ。鳥取島根に我が家とくにヨメさんははまっていて、もう3回いっている(二人で)。今年は家の事情でいけなくなるかもしれないが、サメとシカの文化は出雲がキーだと私も思う。

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August 27, 2009

「善光寺」はだれがつくったか

さて、肝心の「安曇族こぼれ話」の本の内容についてであるが、簡単にいうと、安曇族が信濃の古代寺院を作ったことに大いに力を発揮したという説だ。その例として明科廃寺や善光寺境内の「古代寺院」を想定されている…ようだ。

私は地元の豪族の協力なくしてこうした地域の古代寺院が建設できたとは思わないが、さりとていわゆる畿内系瓦を用いた古代寺院の建設にあたって当時の「中央の」(あまり使いたくない言葉だが、ここでは便宜的に)豪族や勢力抜きで作れたとも考えにくい。

考えてみれば当たり前で、今も大規模な公共事業は、大手ゼネコンが地元の建設業者を束ねてやることは珍しくないし、国土交通省やネクスコが地元の土木業者に発注することもよくあることだ。だから、「誰」が作ったかという論議は実は難しい。

子供のなぞなぞに「法隆寺は誰がつくったのか」という問いに対し、「聖徳太子」と答えると間違いで、正解は「大工さん」というのがある。まさにそれで、発注した人や指揮した人もいるが、設計した人、受注して施工した人、実際に組み立てた人、建設した人とさまざまな人が携わって大型の建設工事はすすむ。

これは古代寺院も一緒だろう。さて、その施工業者を束ねた大手ゼネコンにあたる古代豪族に安曇氏がいるのだろうか。明科廃寺については原嘉藤先生も安曇氏を想定されているので、前述の古代史研究者の推測もあながち的外れではないかもしれない。私は違う根拠から百済系の人たちとくに百済王氏の周辺の人たちの関与があったのではないかと思っているが、これもそれほど根拠があるわけではない。安曇は百済再興戦争の時に、百済救援に行っているので、百済王氏とは浅からぬ関係にあるので、別に安曇と百済王氏が協力してもかまわないとすら思う。ただ、これを考古学的に証明するのは、今のところかなり難しい。百済王氏はともかく、安曇は地名や文献にはそれなりに出てくるが、考古学的な証拠から何をもって安曇氏が信濃にいたのかを証明する証拠とするのかがよくわかっていないからだ。これは今後の課題だろう。

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August 24, 2009

ネリー・ナウマン先生の埴輪研究

ネリー・ナウマン先生の論文を読む。

ドイツで、日本研究者からすすめられた埴輪に関する論文である。ネリー・ナウマンと言えば、縄文の図像学とでもいうような、土器の文様や土偶の解釈や山の神の論考ではなんとなく知っていたが、縄文文化をなんでもかんでも記紀神話で解釈しようとするような気がして、一時、少しは読んではいたが(もちろん邦訳)、ちょっと見当はずれな指摘が多いような気がして、遠ざかっていた。

たしかに縄文は先生が考えるほど、記紀神話ですべて解釈できそうもないというか、先生が利用できた縄文の資料はとても断片的である(これは時代の問題もあるし、先生は普段ドイツにいて、日本の資料を簡単に直接見ることができなかった)。

しかし、今回の埴輪の解釈について、記紀を縦横に引用しているが、私は縄文の土偶の解釈よりずっと的確で、先生はなかなか私たち日本の考古学者にはない視点があることは確かだ。

高天原はどこか。なんてことをとにかく考古学的にアプローチしようとしていて、興味深い。(久米と久米歌)ただ、縄文、弥生、古墳文化というのは、文化の捉え方としてそれなりに有効なモデルではあるけれども、古墳より弥生、さらには縄文となるとさまざまな文化をひとまとめにして、○○文化と言っている可能性がある。まあ、大きくとらえることをしないと古代日本文化論みたいなものは語れないとは思うが…。いずれにしても、大きな刺激を与えてくれたことには違いない。

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