April 14, 2009
語学の学習が我が家の趣味?であるが、たぶん自分の人生の中で、最強?の先生に語学を教わる。正確に言えば勉強の仕方を教わることができた。
言われてみるとなるほどということが多く、逆になぜ今まで自分が駄目だったかがよくわかる。(とはいってもそれがすぐに実践できない自分がなさけない。)
いくつかなるほどというアドバイスがあったが、忘れないようにここにも記録しておく。(本当の秘伝は隠しておく)
①外国語でモノを書く場合、とにかく日本語でよく考えて、ロジックを大事にすることというのがあった。たぶん語学が得意な人には当たり前なんだろうが、これは非常に大事である。考えてみれば日本語で書く場合も同じである。なまじ日本語だとなんとなくすらすら書くことができるような気がして、ロジックなんてどこかへ行ってしまった独りよがりの文章になっている。独りよがりの文章はこのブログだけにとどめておいて、普通の文章は、ロジックを大事にしなければいけない。なんでかというと他人に分からないから。
とくに文化が異なる外国の人には、極めてわかりやすく論理を進めないといけない。なんとなく雰囲気は一番ダメ。(深く反省)
②本当のその言い回しが存在しているか、様ざまな道具(インターネットも含む)を使って調べること。和○辞書を使わない。
結局②がどんどんできるかどうかは、どのくらいその言語の本を読んでいるかにかかっている。つまり、仮にその言い回しが、芸能やファッション雑誌に載っていても、それは論文には向いていない表現かもしれない。自分がいかにその外国語の論文を読んでいるかで大きな差が出る。
もう、この年になって遅きに失しているが、折角具体的にいろいろご教示いただける先生に恵まれたのだから、ベストを尽くそうと思う。
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March 05, 2009
考古学的な論文ではないから、いちいと目くじらをたてることもないのかもしれないが、今一度確認したいのは、善光寺境内出土古瓦の年代についての考え方だ。
巷間では、というか郷土史の解説では以下のような説明がたまにみられる。
善光寺境内から川原寺様式の古代瓦が出土している。そこから白鳳時代に寺院があったと言われているが、その後長野市牟礼バイパス建設時の発掘調査で平安時代の住居跡から同型の古代瓦が出土したから、善光寺境内の瓦は平安時代の瓦であることがわかった。
考古学に詳しくない人はなんとなくもっともな説明と思うかもしれない。しかし、これは私はおかしな理屈だと考えている。
例えば、奈良時代に創建された信濃国分寺の瓦が、周辺の平安時代の住居跡から出土したからといって、信濃国分寺の瓦が平安時代のものと言えるのか。もっと極端な例で言えば、古墳の墳丘から縄文時代中期の加曾利E式が出土したからといって、加曾利E式は古墳時代のものなのか。
後代の遺構(の覆土など)に、それ以前の時期の遺物が含まれることは珍しくない。
瓦は耐用年数がきわめて長いものである。奈良元興寺など創建当時の瓦を未だに使っているところもあるぐらいだ。長岡京の瓦は再利用するために平安京に運んだそうだから、転用することも珍しくない。瓦をカマドの構築材に使うこともある(信濃国分寺周辺など)。
先ほどの説明の太字の部分は、善光寺境内と同型の瓦が平安時代にも竪穴住居跡内に埋もれるような状況(廃棄された?)であったことがわかるだけなのだ。出土状況からは、平安時代にこの瓦が作られていたことは間違いない。しかし、これが平安時代以前の可能性を否定するものではないのだ。
無論、だからといって、善光寺境内の瓦が、奈良時代やそれ以前の遺構から出土しないかぎり、出土状況からはその年代を推測できない。型式学(あるいは様式)から白鳳時代あるいは奈良時代初頭と推測しているにすぎないのではあるが…。
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March 03, 2009
ここ2日ばかりウシのことをいろいろうかがえる機会を得た。
ウシは中近東で家畜化されたものが西はヨーロッパへ、東はアジアへ来たらしい。アジアへはインドから東南アジアへいったもの(コブウシ)とそうでないものは東アジアへきたらしい。
お釈迦さまの涅槃図に描かれているようなウシはコブウシでこれは直接日本には来ていないらしい。日本に来ているウシは中近東からシルクロード、中国、朝鮮から来たのか。
興味深い話が「新撰姓氏録」にある。善那という人が天皇に牛乳を献上した。天皇は喜んで牛乳を管轄する役人に任命されたのだが、実は善那の祖先(知聰)は百済から仏教や仏像を伝えた人で、そのときウシも連れた来たらしい。
知聰のそのまた祖先は呉の出身だったというから、ウシも呉→百済→日本と伝わったのかもしれない。ウシはステップ地帯の動物というよりは、稲作地帯によく似合う気がする。これだと仏教伝来の教科書的なコースと一致している。しかし、どーもこのモデルはできすぎていて、どうなのか…。
だけどなぜか古墳時代の日本では当初ウシは耕作用にはあまり使われなかった、ウマを耕作につかったらしい。倭の五王は、中国南朝と交流があったのだから、かの地のウシ利用については情報があったはずだ。なぜか。
どうもウシは水田や畑の耕作用ではなく、奈良時代は牛乳用に特化していた。車を引くようになるのは平安時代になってかららしい。
いろいろ考えてみよう。
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February 11, 2009
「ロシアの声」のホームページを見ていると、ロシアの考古学についての記事を目にした。
オリガ・ザルバイーロヴァオーリャさんという「ロシアの声」の職員が日本の聴取者に答えたものであるが、なかなか秀逸。オリガさんなかなか詳しい。
この中で、チジュルチジェンスキイ人(女真)のことを紹介されているが、翻訳も参考になりました。
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September 22, 2008
神話というと古代の文献「古事記」・「日本書紀」の神代のことかと思われるかもしれないが、もちろんこれらも神話である。しかしより新しい時代にも神話はある。たとえば「諏訪大明神絵詞」や「信府統記」などに収録されている物語はある種の神話である。これらは記紀の神話のように神の国での話ではなく、現実の場所での物語であるが、登場人物(坂上田村麻呂、ギシキ、八面大王、泉小太郎などなど)は常人ではなく、一種の「神」である。これはさすがに当時の人も仮に坂上田村麻呂が歴史上の人物ではあっても、これらの物語に描かれているのは、一種の神話だと気が付いていたはずだ。ただ、難しいのが神話=フィクションではない。今風にいえば虚実ないまぜといったところか。
この手の神話はどうして語り伝えられるのだろうか。少なくともコアの部分は民間に伝わったり受け入れられているものだろう。すべてが為政者が作り出したものとは思えない(もちろんだからといってすぐ歴史的事実を伝えているわけではない)。
ただ、注意しなくてはいけないのは、当時の人たちが過去に投影して、かくあってほしいということが神話になっているような気がする。でも逆にその記録が編纂された時代のことを知る上では、示唆する点が多い。あらためて中近世のこうした神話的物語を読むと信州人の京都コンプレックスは根深いのだ。一応東日本に分類される信州は一般には現在は東京志向の強い地方と思われているが、あにはからんや、東京コンプレックスがないというか東京に対抗する地域が信州にはある。そういうところは逆に、京都コンプレックスというか都文化崇拝がある。だから改めて、中近世の京都コンプレックスはすごいなと思う(ある意味全国的に文化的に京都にコンプレックスをもたざるを得なかったのであるから仕方がないが)
しかし冷静に考えてみると、強烈な京都や近畿地方とのつながりを神代や古代からあったことを強調せねばならなかったということは、それだけ在地というかこの地元の文化も強烈だったのだと思う。その点遺跡は正直である。遺跡から出てくるものを見る限り、もちろん信濃が都とまったく無縁だった時代なんて言うことはないけれど、以外にそれではわりきれないことだらけで、まあある意味安心する。(今の私たちの生活をみればわかる。)
ただ、実際の生活はそうでも、やはり精神世界というのか、どこかにこうした神話が欲せられるということは無視できない。それを考古学で描けたら面白そうなのであるが、さてどうしたものか。
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April 27, 2008
先週の日曜日(4月20日)東京新橋のヤクルトホールで行われた講演会くじらと日本人へ行ってきました。
捕鯨協会主催ということもあって、捕鯨問題にも当然話が集中していましたが、森先生の話は縄文から中世のクジラと日本人のかかわりについてであった。
九州の阿高(あだか)式をはじめとする縄文土器にはクジラの椎骨の凸凹がプリントされている。阿高式は私の卒業論文のテーマだったのでなつかしい。今や長野県にいるのだから、もう九州の縄文土器とはおさらばと思うと、森先生の講演会の話題に出てきて、縁が切れそうで切れないのか。どーも中央高地の縄文土器を考えるヒントになりそうである。(もちろん直接的な型式学的な関係ではないが…)
森先生もすでに気がつかれているようですが、私も見た時に似ていると思いました(詳しくは内緒・・・)。海が無い信州の縄文文化ですが、「海にあこがれて」いたんですよ。きっと(手前味噌ですみません)。
サメの歯、海産貝(タカラガイ、ツノガイ、イモガイ、ハイガイなど)のほかに、クジラもねえ…。たぶん便利だというだけでなく、その動物にあやかろうという気持ちがあったのだと私はにらんでいます。
あとナマコと信州の関係もまとめなくちゃねえ…。でも講演会で森先生が、最近は思いつきのような研究が多くて困ると苦言を呈しておられた。なんか自分のことのようで、ちょっと怖い気もする。でも、私のは引玉のせん(瓦)ですから、ご容赦ください。
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March 08, 2008
南山大学の大塚達朗先生の近年の研究成果を読んでみる。だいたい先生の研究は目を通しているはずなのだが、私の理解というのは、読んでからしばらくたって(それも時間がかかる場合で数年で)実感できるので、だいぶたってから意味が分かってくる。脳科学ではどのようにとらえられるのか聞いてみたいぐらいだ。たぶん理解力というか実感力に欠けるのだろう。でも仕方がない。
さて大塚先生の説については、縄文土器型式の研究に得意な人であれば、自明の理なのだろうが、ご本人が著書一覧で述べられているから間違いないが、山内清男の縄文式土器という体系に疑問符をつけているのだ。
たぶん考古学の専門的研究であるから、あまり世間のやばい人たちの目に触れることはないから、巷間で大騒ぎになっていないようだが、仮に大塚説が正しいとなると、「縄文文化」という枠組みは、結構あぶなくなる。縄文文化は大丈夫か。
すでに西田泰民先生が、巷間で縄文文化は多様だと言われるが、それは縄文文化が多様なのではなくて、多様な日本列島の当時の文化を「縄文文化」といって一つにくくっているにすぎない(大意)。と指摘されてはいる。
考古学の専門家(と称する人たちの)中でも、弥生文化や古墳文化さらには律令国家の領域が、現在の日本国と一致しないことは自明である。旧石器時代も日本列島の旧石器時代とかあるいは先土器時代などと呼ぶが、各地域文化、たとえばナイフ形石器の段階では、茂呂型ナイフ形石器文化とか国府型ナイフ形石器文化のような呼称を使って研究がおこなわれていて、旧石器時代の日本文化みたいな呼び方をすることはない。
それでもみな安心していられたのは、縄文文化の究極的枠組みは、大丈夫だろうという見通しがあったからだ。たとえば北海道の石刃鏃文化や九州の曽畑式などちょっと縄文式の範疇からはずれそうなものもあることにはあるが、それも縄文文化の辺境地域のこと(北海道や九州の方ごめんなさい)とタカをくくっていられた。
ところが、大塚説はそういうことを言っていないようである。より本質的な問題を指摘しているようだ。私にはまだ大塚説の是非はわからないが、これをしっかり研究する必要がありそうなことだけがようやく見えてきた。
ちなみに、私は縄文文化大陸関係説(なんてカテゴリーはないけれど、仮称)的によく見られているが、本当は国粋主義的です。たぶん旧石器時代や弥生時代、古墳時代後半に比べれば、日本列島の中を行き来していた人たちであるとは思っています。だけれどもこの枠組みでよいかはたぶん当分終わりそうにないテーマでしっかり考える必要があることは間違いない。
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February 23, 2008
いよいよ一つ目の仕事の締切が山場である。私の苦手な分野(なんとなく)の弥生である。どうして苦手なのか。関西の大学にいったのだし、昔は縄文晩期の突帯文土器の整理なんかも手伝ったくらいなのに。
弥生土器や石器といった遺物が苦手でも、遺跡が苦手でも、いわんや弥生の研究者が苦手というわけでもない。一つには農業に関する知識や体験があまりないことに起因してそうである。不思議なことにかといって狩猟・採集生活の経験もないのに、別に縄文研究にこうした苦手意識はないのだから本当のところはよくわからない。
しかし、今回諸先生の弥生研究を読んでみて、あらためて縄文に比べて弥生社会って大変な時代だったと思う。亡くなった佐原真先生が、弥生時代は平和な農村というイメージでなくて、戦争の時代だったというのは、いろんな反論も多いだろうけれども、同感である。
毒舌の某先生は「殺傷されたと思われる人骨の数では弥生より縄文の方がおおいで…」(といって縄文が戦争の時代だと言っているのではなく、考古資料の解釈の難しさを指摘されていたのであるが)とにやりと笑って話をされていた。しかし、やっぱり弥生時代は殺伐とした時代ではなかっただろうか。ヨメがはまっている山陰地方をいやたぶん日本を代表する弥生時代の遺跡青谷上寺地の大量殺傷人骨の出土は、鎌倉時代末期と考えられる鎌倉材木座海岸出土の多量殺傷人骨を思わせる。
鎌倉の方が、たしか男性壮年人骨が中心だったような気がするが、青谷上寺地遺跡は老若男女という感じである。どういう理由があったのかわからんが、それにしてもまさに「残酷」の世界である。
殺傷された縄文人骨の話に戻るが、縄文人もおそらく縄張り争い、収穫物、女性問題などで喧嘩して相手を殺傷することはしばしばあっただろう。しかし、殺人専用の道具がないのは確かである。
一方弥生時代は武器(剣や戈)をまつったりしていて、「猿の惑星」でコバルト爆弾?を崇拝している地底人みたいなところがある。それに致し方ないだろうが、水田を中心とした社会なので、これを維持管理するために、とかく縄文時代よりずっと管理社会になる必要があったのだと思う。(ストレスたまるわな)
これがコメ社会の恐ろしさか…。出土植物の研究では、弥生時代必ずしもカロリー的にはコメが主体でなく、雑穀、豆のほか縄文時代以来の植物質(堅果類)を食べていたようであるが、コメを食べることに価値がおかれたことによって、これ中心に社会がまわるようになって、大きく世の中雰囲気が変わってしまったようだ。どうもこのあたりが私の弥生文化があまり好きになれない理由らしい。
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January 31, 2008
過日、長野市埋蔵文化財センターさんのご好意でようやく?善光寺境内出土瓦を見学させていただく。
瓦の展示をやったとはいうものの、古代瓦についてなにか目新しい所見が出せるわけもないが、さまざまな付随する情報をご教示いただけて、よかった。
例の湖東式の軒丸瓦は、滋賀県以外だと、福井県にしかないそうである。早速、ホームページ検索してみると、福井県の例が紹介されていた。(福井県史通史編)
上記のホームページは小笠原好彦先生の意見を引用していて、「この祖型は百済の首都扶余の軍守里廃寺や、中国吉林省の渤海時代の遺跡に求められる」そうだ。
長野市の担当者の方も、滋賀県から日本海ルートで湖東式瓦の文化が伝わった可能性も考えておられるようだが、私も賛成である。
そうしてみると、ほかの長野県の古代瓦の起源やルートを見る目も変わってくる。たとえば、雨宮廃寺の瓦と同系の瓦が新潟県新井市で出土している。また明科廃寺の瓦は岐阜県飛騨地方である。いずれも日本海水系である。
これらの瓦はみなおおもとはあるいは近畿地方かもしれないが、日本海ルートを重視すべきか。滋賀県で出たとなるとすぐ東山道ルートという発想が出てきそうだが、稲荷山の信楽焼の話ではないが、日本海水運ルートは前近代において一大ルートであった。
さて、話変わって朝鮮半島との関係でいえば、百済びいきの私としては、百済に祖形があるというのは、善光寺の伝承と符合していそうで、一見よいのだが、渤海との関係ももしもあれば面白そうではある。善光寺境内からは出土例はないが、千曲川流域(おもに右岸)では蕨手文(雲紋)の軒丸瓦が出ている。雲紋の瓦もそれこそ吉林省などからも出土しているので、そこらへんの地域とも比較したいものである。
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November 17, 2007
神話の考古学については、近年いくつかの本が出ていて目が開かれることが多い。(森先生の日本神話の考古学など)
ただ、「神話」は対象が古代の話という前提がある。例えば日本神話の場合記紀に収録された奈良時代の頃にはそういう話があったということがいえる。つまり神話の描いている世界が、古墳時代か弥生時代かはたまた縄文時代かはおいておいても、少なくとも古代の人がそういう話を知っていたという最低限のラインがある。
その点、「昔話」(民話)は、「昔」の話だが、どの程度の昔かはよくわからない。たしか柳田邦男が足利時代(室町時代)より遡らせるのは難しいだろうという指摘をしていて(今、直接の引用を見つけられない。識者の叱正を乞う)、なんとなく自分も中世後半あたりか江戸時代の話なのかと思っていて、古代に遡らせるのは難しいだろうと思っていた。
しかし、聖書の地名由来譚などは聖書が編纂された頃のものが今も伝わっている場合を考えると、日本でいえば弥生時代くらいの伝承が生き残っているわけである。伝承の命が必ずしも短いとは限らない例である。
日本にもこれに匹敵する伝承はいくつかある。日本神話(神功皇后や日本武尊など)の中にもいくつかありそうだが、いわゆる中世のお伽話に採用され、謡曲の世界にも影響を与えた「浦島子」伝承がある。
日本書紀に断片的にあり、万葉集や丹後国風土記逸文といったものにも見られる。遅くとも奈良時代には成立していたわけであり、それいぜん例えば飛鳥時代くらいに遡る可能性すらある。
日本書紀、万葉集や風土記の資料がかけていて、中世の御伽噺の浦島太郎からしか残っていなければ、到底話の表層だけから、浦島太郎が古代に遡るとは推定できなかっただろう。
このほか竹取物語なども思ったより古いかもしれない。
マンガ日本昔話などのイメージが強く、どうしてもこうした民話の舞台を武士の時代、柳田が指摘するような室町時代以降を考えてしまうが、コアの部分(昔話の深層)は古代にも遡るものがいくつかあるような気がしている。
それは、遺跡周辺に遺跡とかかわる伝承がある。古代の遺跡の性格とかかわりそうな例がいくつかある。これは遺跡が集落などとして現実に機能していた時代のことを知っていなければできない話がある。勿論その多くは集落が埋もれて長い年月がたってしまったものが多いのだろうが、それにしても古代の遺跡が田畑になった中近世に記憶だけ残っていて、それが民話化されたというプロセスも考えられるが、それ以上にそもそも民話のコアになるものが存在していて、それが一方では遺跡となり(遺跡のような我々が土地に刻まれた痕跡として認識できる形で残存し)、他の面では伝承という形(人々に語り継がれるという情報として残存する)なることもありはしないか。
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September 08, 2007
北海道にいる知人から「牛の善光寺」について教えていただいた。函館善光寺(天台宗)の霊牛説話があり、近くに浄土宗の善光寺もあることから区別するためか今も「牛の善光寺」と呼ばれているそうです。
霊牛伝説によれば、牛は善光寺如来の化身のようでもある。たしかに牛と善光寺にはなにやら縁がある。
①牛に引かれて善光寺参り。小諸布引観音の説話。
②松本の牛伏寺(ごふくじ)の縁起
さて、これを動物考古学?的にみると、どうも奈良時代から平安時代初期の頃のウシ全盛時代の頃にこれらの伝説のコアになった歴史的背景があるような気がする。
これはおそらく信濃だけではなく全国的な傾向かもしれないが、弥生時代にはウシもウマも離島はともかく、本州、四国、九州にはいなかった。5世紀になりウマがまず導入され、なぜかやや遅れて6世紀頃ウシが導入されたらしい。
その後奈良時代にはウマも増えたが、ウシも増え、さらに平安時代になるとウシの方が多くなったが、その後平安時代の後半からまたウマが増えるようである。
これらは日本列島の環境の変化というよりは、為政者の意思によるものらしい。(興味があるかたは「信濃国の考古学」の河野通明先生のコラムをお読み下さい)
とにかく、善光寺とウシのかかわりは奈良時代もしくは平安時代はじめにできたと私は睨んでいるが、それがなぜなのかはまだわからない。百済とウシがかかわりがあれば、よいのですが…
ところで、日本では古代の殺牛馬信仰などと供犠の対象として牛と馬はともに大陸伝来の犠牲の対象獣として扱われるが、実際の中国では、ウマが王朝の犠牲になることは少ないようだ。
中国本土では、供犠といえば、1ウシ2ヒツジ3ブタ(岡村秀典『中国古代王権と祭祀』学生社)だそうだ。ウマはお墓に副葬されることがあってもイケニエには使われない。どうも安易に殺「牛馬」などと一緒くたにしてはいけないようだ。漢民族はウマを副葬してもイケニエにはあまりしないようだ。これは漢民族だけではなく、女真や契丹も同じだ。(ただし彼らはウシが一位ではない)
とくにウシが早くに日本に導入されなかったことは、古墳時代の家畜は中国本土(≒漢民族地帯)の影響は少ないのだろう。また、多くいた動物あるいはよく使う動物を犠牲にするとは限らないのだ。対象の動物に序列があるのは、あくまで各民族の意識や信仰の問題が反映している。また殺牛馬だけが中国大陸諸民族の犠牲風習ではないことに留意すべきだろう。
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September 03, 2007
今日は朝9時半から坂城町上五明水田址で現地説明会があったので、行って来ました。なかなかこじんまりとしてはいますが、成果が上がっている。
思いつくままに。
①6世紀の大型竪穴住居跡
8m×8mの方形。カマドもビックサイズでした。この時期の長野県で住居跡に須恵器がいくつも転がっているというのは、私は珍しいと思う。

②平安時代のお墓から鉄鐸
お墓のそこの部分とのこと。平安時代のお墓だったので、検出面が下がって本来の立ち上がりの部分はない状態になっているそうだ。副葬品には、鉄鐸8個のほかいろいろ出ている。

鉄鐸は、だいぶさびているので、レントゲン写真で個数を確認したそうだ。
このほか錆びた鉄製紡錘車や土師器ツキや灰釉陶器の碗が展示されていた。
墓には、歯が残っていた(すでに現地にはなく、展示会場に土ごと取り上げてあった)。
直接肉眼でざっとかんさつしてみただけであるが、①歯が磨り減っている。②あごが小さめな気がする。大胆に解釈すると、
→成人(老年)女性。簡単にいうと老女か…?

さて、鉄鐸というと茅野市構井阿弥陀堂遺跡の八稜鏡二個と鉄鐸が出たやはり平安時代の墓穴が思い出される。こちらは人骨(歯)が残っていたか思い出せないが、考えてみるとあるいは鏡を伴うお墓って女性かもしれないな。卑弥呼も鏡が好きだったようだし…最近は峠の祭祀で鏡の形をした石製模造品も、山の神(女性)にささげるお供物ではないかと思っている。剣は脅し(ムチ)で、鏡と玉は山の神の関心をひくアメではないか。中近世いや最近までも井戸やトイレの便槽に口紅や鏡をいれるそうだが、やはり井戸やトイレの神様(?)は女性だからだそうだ(伊那市の美容師さんから教えていただきました)
見学者の話題にも出ていたが、私は北東アジアの文化、つまりシャーマンとの関係からも言えそうだと思うが、どうなのだろうか。そもそもシャーマンとは女真語である。それも「松漠紀聞」や「三朝北盟会編」には金建国直後のシャマンの姿が描かれている。シャーマン(珊蛮)は、女性の巫(そもそも巫は女らしい。男の巫は、覡(ゲキ))である。シャマンは、鏡をピカピカさせ、鈴のようなものを帯につけてガチャガチャさせているという。「雷母」などとも呼ばれている。ロシア沿海州の遺跡でもこうしたシャーマンのお墓と考えられている例がいくつか発掘されているらしい。
さて、こうした日本列島のシャマン的な呪術者にも、広い意味で北東アジアの影響だと認める人は少なくないだろうけれども、弥生時代や古墳時代に北東アジアからシャーマンの文化が伝わってきていて、それが平安時代にもまだ信州に残っていたというのが、まあ無難?な解釈か。でも私は古代に女真文化がとまでいわないが、女真のちょっと前の靺鞨あたりの文化が信州にも、来たのではないかと夢想している。(長くなりそうなので、これはまた別の機会に)
それにしても、上五明がある坂城町村上地区は、『日本後紀』で村上姓を賜った高句麗系氏族がいたとも考えられており、どうしても私はそういう目で見てしまう。残念ながら、積石塚がある地域ではないので、古墳時代の様相から積極的に渡来系氏族がいたと考古学的にいえないのだが、むしろ日本後紀のいう延暦18年つまり奈良時代末から平安時代初期のこととして考えてみたら、どうだろうか。
渡来系氏族といったってみんながみんな平壌やソウルの中国的都会文化(文明ともいうが)の担い手ではなく、信州人と似たかよったかの素朴、質実剛健な人たちも多かったと思う。そうじゃなければ馬なんぞ飼育できないと思うがなあ。
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August 02, 2007
「ショウド」と発音して、だいたいの考古業界人ならば、「焼土」となんの疑問も抱かずに書くだろう。ところが世間的には「焦土」の方が一般的である。「広辞苑」によれば、「焦土…①焼けて黒くなった土、焼け土。②家屋などが焼けうせてしまった土地。」であり、一方「焼土…土地改良法の一。土の上に枯草、枯葉などを積み重ねて徐々に焼くこと。」である。現場で普通「焼土」と言っているのは、焼けて赤くなった土」である。焦土の①黒くというニュアンスと②焼け野原と区別する意味でか、「焼土」の用語がつかわれるのだろうか。だとすれば、山本翁の「耳で聞いてわかる言葉を使え」にならって、「やけつち」と現場では呼んだらよりよい気がするがどうでしょうか。
ところで、今日なぜかそれぞれ自分の論文が掲載された本が偶然二冊(別の本)が送られてきた。片方は、もうなんども扱っている題材だから、少少マンネリ的ではあるが、そういう内容で書けと言う指示があるのだから、しかたがない。もう一方はそういう縛りがないので、自由に書けた。まあ世間の評価と作者の満足度はおそらく一致しないだろうから、どうでもよいが、自由度の高い方を世間一般には見てほしい。
最近は、家ではまったく今までだったら想像もつかない世界というか、作業に没頭している。延々漢文の調べものをする羽目に…。そうはいっても漢文の世界は素人だから、まあ同じところをそれこそ何度も何度も読む。ついでにどうしても引用されているところ以外の前後も読むことになる。(引用の部分が適当に間違っているので、これを探すのにどうしても、該当部分だけ読むと言うわけにはいかない。引用が正しくても前後を読むって当たり前か…)。その苦労のかいがあってか、今日は短時間で、課題の引用部分をすぐに検証することができた。古典的な文献は何度も繰り返し読む必要があるんだなと改めて実感する。
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May 01, 2007
「点と線」といえば、松本清張氏の推理小説の名作である。その後の西村京太郎シリーズに見られるような鉄道や航空機を巧みに利用したトリックのはしりということで記憶されている。松本清張氏はもちろん推理小説のトリックの意味として「点と線」という題名を付けたのだろうが、後の松本清張氏の考古学や歴史研究の打ち込み方をみていると、文化というものが点と線でつながっていると氏がすでに気が付いていて、それを暗示しているように私には思えてくる。
どうしてそういう風に直感的に思うかというと、私が幼少の頃は「文化」のとらえ方というと柳田国男の蝸牛考的な文化的中央から地方に文化が波紋のように伝播していくというようなモデルがよく人口に膾炙していたと思う。(学者の世界は知りませんが)その時に、波紋のように文化が伝わるというように説明されると、文化というものは面的に広がるイメージを頭に浮かべたものだ。
ところが、柳田の蝸牛考的な発想を現代文化に持ち込むといつもえらい目にあうという実感があった。例えば、東京に近いところの埼玉や千葉が必ずしも文化(人間の行動様式)的に東京に近いとは限らない。西日本の人から見れば、同じ関東ということになろうが、かなり違うところが目に付く。冠婚葬祭などの習俗については、どちらが高度の文化というような位置づけが難しいので、結構トラブルの種である。隣接する地域が文化的に近いとは限らず、少し離れた地域とかえって親近感を持っていたりする。
これは関西にいっても同じ感じがする。大きなくくりとしての関西という文化圏は存在するが、それ以上に、大阪、京都、奈良はそれぞれかなり人間の行動様式や趣味は異なる。「地方」に小京都といって京都を崇めている都市がある。小京都なんていうものは、京都のある一面を伝えているにすぎないのだろうけれども、文化が面的に伝わるのではなく、点で入ることを示す証拠ではないか。
さらに伝わってくるルートというのが大事だ。中国の考古学者故童恩正先生は、「文化伝播帯」という概念を提唱されていた。地理、自然などの環境が似た地域は同じ文化を共有しやすいと。中国大陸には中原を中心とした平野部をとりまくように辺地文化伝播帯(中国東北-モンゴル-チベット東部-雲南)があるという。
辺地文化伝播帯の是非はともかく、文化伝播帯の概念は面白いと思った。日本列島においては、童先生のいうような文化伝播「帯」をそのまま日本列島の文化論を分析する上で設定することは難しいかもしれない(それこそ日本列島弧自体が一つの文化伝播帯になりかねない)。
しかし、文化伝播ライン(線)は設定できるのではないか。律令の東山道や近世の木曽街道にあたるものが、律令制以前に、いや童先生が文化伝播帯で主張されたように新石器時代から歴史時代にかけて通時代的にこうした文化を伝えるネットワークのようなものが存在し続けたのではないか。このラインの上の点と点を結ぶような形で文化は伝わってくるように見える。結果としてこうした文化の地理的な様相を地図上に落とすと面的に見えたりするので、巨視的には「文化圏」のようなものが設定できるが、微視的には点と点、あるいはモザイク状(ちょうどテレビの画像の面が、細かくみると点の集合であるように)なっているのではないか。
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April 14, 2007
今から思い出しても腹が立つが仕方がない。業務的に広報活動の一環として某紙にコラムを書くことを依頼されて、原稿にしたのだが、某紙の編集担当の方に行く前に、諸事情で、載せられなかった原稿を再録する。
「無仏」ではなかった平安時代の信濃
長野県立歴史館では、「古瓦からみた信濃の古代」と題して、飛鳥時代末から平安時代初期の瓦を一堂に集めてみた。今回の展示では、信濃では飛鳥時代に寺院が作られはじめ、奈良時代には各地に氏寺(豪族が建てた寺)や国分寺が相次いで建立された様子が瓦からもうかがえる。ところが平安時代になると、信濃では、瓦自体が減ってきて、つくられなくなってしまう。なぜなのか。豪雪のためだとかあるいは仏教が廃れたためだとかとなんとなく思いたくなる。
たしかに、『六国史((りっこくし)』(国が編さんした正史)に「善光寺」のことは出てこない。信濃国分寺も中世になって異なる場所に再建された。さらには、鎌倉時代の『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』の「信濃国の聖(ひじり)の事」という説話に、奈良にいた信濃出身の僧が、信濃のような田舎の「無仏世界」には帰りたく無いと嘆く一節が記されている。
奈良時代に隆盛を誇った信濃の仏教文化は、平安時代になると廃(すた)れてしまったのだろうか…。
長野県考古学会長だった森嶋稔氏は、善光寺平には、経塚(きょうづか)(末法(まっぽう)の世に備えて仏典を埋めた塚)や経石(きょうせき)(石に仏典を書いたもの)が多い。千曲市に伝わる姨捨(おばすて)伝承はそもそも仏典の棄老(きろう)説話から来ているとし、信濃は非常に仏教的色彩の強い土地柄であり、平安時代の信濃の仏教が廃れていたとは思えないとする。
とは言うものの、信濃の経塚の実態はよくわかっていない。経塚や経石の年代も平安時代と限定できるものは少なく、多くは中世まで下ると言う反論が出てくるかもしれない。
だが、私は基本的に森嶋説に賛成である。たしかに経塚や経石の年代は平安時代とは言えないのかもしれないが、信濃の古代仏教文化、とくに平安時代には、寺院跡や瓦以外の仏教関係資料が多いことが、近年の発掘調査からはっきりしてきたからである。
たとえば、長野市篠ノ井遺跡群では、平安時代と考えられる瓦塔(がとう)(高さ2~3mの焼物の塔)や塼仏(せんぶつ)(粘土を型におしあてて焼いた仏像)が出土している。塼仏はまだ県内で数点しか出土していないが、瓦塔は善光寺平だけでなく、上田や塩尻など県内各地でみつかっている。
この他、佐久市聖原(ひじりはら)遺跡で平安時代前期の「佛」と書かれた土師器や千曲市社宮司(しゃぐうじ)遺跡では、阿弥陀如来と思われる仏像が描かれた平安時代末の六角木幢(ろっかくもくどう)(笠がつく六角柱状の木塔)が出土している。奈良時代の「官」的仏教文化が平安時代に多様になり、むしろ一般的な集落の中にも仏教が広がっていたと考えられるのである。
某紙編集担当の手に渡る前に、内部的に没とされたのだが、その原因が実は、この文章のさらに元の原稿には、「奈良にいた信濃出身の僧が、信濃のような田舎の「無仏世界」には帰りたく無いと嘆く一節が記されている。」の後に「都会の文化にかぶれた信州人が自分の故郷を見下して、無仏といったのかもしれない云々。」という文言があったためのようだ。
これはよく今もよくある話で、別にそれほど変な話ではないと思う。なにも信州だけでなく、室生犀星も「故郷は遠くにありて思うもの」と述べている。なかなか故郷を冷静に判断することは難しい。(とくに他所の世界を知ってしまった場合)
だけどこの一節あまりにも有名だが、これをもって信濃の古代佛教文化が廃れたとするのは言いすぎであるし、さらに善光寺が廃れていたというような見方は巷間の俗説にしかすぎないと思うがどうだろうか。
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March 18, 2007
考古学神髄
20世紀最後の霊能力者である私が、今回考古学の本場イギリスの探偵にして考古学者のシャーロック・ホームズ氏と良き友人ドクター・ワトソン氏を大霊界からお招きして、考古学について問答をしていただいた。
ワトソン「ホームズ君。そもそも犯人さがしにおいて”もの”の証拠が大事なのだから”もの”さえ見つかれば犯人が誰だかわかるのだろ?」
ホームズ「ワトソン君。それでは犯人はつかまらないよ。犯人が殺人事件で使った凶器も、どこで、どのように見つかったのかが問題なのだ。つまり、犯行現場に落ちていたか、犯人の部屋にあったのか、そしてそれがどのようにあったのかが問題なのだ。だから現場検証が犯罪捜査の上で絶対に欠かせないものなんだ。」
ワトソン「なるほど、だから現場検証では証拠になりそうなものはむやみに動かしてはいけないのだね。しかし、君はよくナイフやピストルといった明らかに犯罪に使われたと分かるもの以外に、毛糸のくず、土、たばこの吸い殻、ほこり、髪の毛さらには足跡といったものを観察して記録しているが、あれはなんのためなんだい?無駄なようにも見えるが…」
ホームズ「ワトソン君、それこそ犯罪捜査の基本なのさ。一見何の変哲もないものが我々に様ざまなことを教えてくれるのさ。タバコの吸殻からはその人の性別、血液型がわかるし、土は犯人がこのロンドンのどこを歩いて来たかを教えてくれるのさ。」
結局、ホームズもワトソンも考古学のことは、ほとんど語ってくれませんでしたが、彼らが言っていることは私達の発掘現場で行われていることと同じなのです。つまり私達が遺跡から発掘する”もの”(土器、石器、木製品など…)は過去(歴史)を知るための”証拠”です。土器は年代を探る手がかりになります。石器や木製品は当時の人たちの生活の様子を知るてがかりです。
しかし、これらの証拠はホームズもいうように、どこでどんなふうに出土したかが大事なのです。それぞれ出土したところによって意味が異なってきます。だから”宝もの”であっても、むやみに掘り出してはいけません。そして、どんなふうに出て来たかを記録しなければいけません。(どんなふうに埋まっていたか)
そして、土器や石器といった明らかに私達の先祖が残したもの以外の”もの”例えば木の実、昆虫、足跡、土といったものも、十分考古学の”犯人”探しの”証拠”になります。土の中のプラント・オパールという稲などの植物に含まれる小さなガラスの粒や花粉、珪藻(プランクトンの仲間)なども調べることがあります。
ホームズ「おろかな考古学者よ。私が考古学のことを知らないとでも思っているのか?考古学でも犯罪捜査でも一番大切なのは、動機だよ。何でそういうことが起こっているのか、誰が何のために起こしたのかを解明しなくてはいけないのだ」
ワトソン「犯罪がいかにして起こり、また犯人の動機が分からなくてはね…」
ホームズ「まさに初歩だよ。ワトソン君」
(川田条里遺跡B地区調査速報第7号 平成2年6月7日より)
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January 08, 2007
勾玉の起源というと、青森の鈴木克彦さんは、日本列島で勾玉が一系列で追えるという考えのようだ。鈴木説は或る意味正しいと思う。牙勾玉をとりあえず除くと、確かに前期から縄文には、ずっと曲がった玉がある。
ただ、①後晩期以前の勾玉があまりに形がさまざまであること。②中期のヒスイ文化全盛期にヒスイの勾玉がない点がひっかかるのである。
北海道の美々4遺跡の後期の勾玉が、日本列島での定型化した勾玉の最初と私は考える。実は、前期の勾玉とされるものには、ケツ状耳飾を再加工品が結構見られる。(長野市松ノ木田遺跡、松原遺跡など)これは、二つの可能性が考えられる。①素材が単にケツ状耳飾というだけであって、形としての「勾玉」はすでに成立していた。②ケツ状耳飾を素材として垂飾を造ったので、結果的に曲がった垂飾になった。①であると鈴木説に好都合であるが、私は②の可能性があると思う。なぜなら、前期にはケツ状耳飾や中期にはヒスイ製品が盛んに流通した中央高地に、後晩期の勾玉が少ないというのが、私が今一勾玉単一系統説にうなづけない理由である。
いずれにせよ、こうした単純な形態の装身具は他人の空似が避けられないので、セット関係だとか、素材や製作技法から起源論にアプローチしたいものである。それにしてもヒスイの勾玉がほとんど北海道や北東北であるという事実は、特筆すべきではないか。
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November 04, 2006
三角壔(とう)土製品。今となっては読みにくく、意味も取りにくいのであるが、かつては数学(幾何学)では、よく使われた用語だったようだ。今の数学の教科書では三角柱といっているものにあたる。(知人からの指摘による)
では、「三角柱土製品」と言い換えればよいと思うが、どうでしょうか。ちなみに壔が土偏であるのは、遺物が土製品であるかとは関係がないようである。
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October 19, 2006
昨日のNHKテレビ総合「ためしてガッテン」で縄文土器(加曽利E式だった…)は、クリを煮るのに向いている(正確にいうと、縄文土器でクリを煮ると甘くなる)というのは、大変参考になりました。
縄文土器の熱しにくいがさめにくい、段々熱くなっていく性質を利用するという話はなるほどと思いました(ガッテン!?)。縄文土器も草創期や早期は比較的薄手であるが、中期は厚手である。これは、単純に煮炊きの熱効率を考えると、薄手のほうがよい気もするが、クリを甘く煮るには厚手の方がよいわけだ。(私は、クリだけでなく、ドングリなどのアク抜きの煮炊きにむいていると考えているのですが…)
「ウチは本当にテレビから学ぶことが多い」とはウチのヨメさんの弁です。
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September 23, 2006
中世に大量埋蔵(埋納・出土)銭というのがある。大きな甕などの焼き物に入っていることが多いが、木の箱や穴にサシで連ねて埋められていることがある。
宗教的な意味を見出す網野説と単に備蓄や隠匿のためだとする説がある。私はどちらかというと後者である。ところで、貨幣経済がますます発達した近世になぜ大量埋蔵銭がないのだろうか。中世は戦乱の時代で、隠匿する必要があった。一旦どこかに避難していて、(大量の財貨を持ち出せないので)あとで帰ってきて掘り返すとというようなケースが多かったが、近世にはその必要がなくなったためかもしれない。
また、銅銭一枚の価値が下落した(インフレ)ためであろう。中国でも宋あたりまでは銅銭はかなり流通の中心をなしていたが、元以降紙幣や銀の役割が大きくなり、銅銭は補助貨幣になっていく。日本でも近世になると金や銀の流通が基本で、銅銭は補助貨幣となっていたので、富の蓄積の象徴としては、俗に千両箱(これは小判なので金貨)などのように、銅銭以外の貨幣を蓄財し、富としたからであろうか。
宗教的な意味、たとえば地中は他界であり、地中に埋めることによって神仏のものとされたとか。私には正直言ってその是非を判断する材料がない。遺跡の発掘に即していえば、縄文と中世は何しろ大きな竪穴が多い時代の気がする。(長野県だけか?)
竪穴のことを土坑と呼ぶが、弥生や古墳には縄文のような竪穴(墓だったり貯蔵穴だったりするのだろうが)は、多くない。古代も竪穴住居跡や住居にともなう竪穴はあることはあるが、墓穴などは人口(竪穴住居跡の数の多さ)の割には、とても少ない。たぶん穴に埋められて埋葬される人は弥生時代以降平安時代まではごく一部の人だったと考えざるを得ない。(縄文は誰でも埋葬したために墓穴が多い)中世はどうだったのか。おそらく近世的なあり方への過渡期だったのではないか。(近世のお墓もこれまた墓穴としてかなりの数が認識される)
中世も墓穴は縄文ほどは多くは無いが、古代の墓穴よりは墓域がはっきりしてくる。火葬墓あり土葬墓ありといろんなものがあるが、これは宗教や階層を示しているのだろうか。そのほか住居でも墓でもない竪穴が多いのが、中世の遺跡の気がする。埋蔵銭については、基本的には隠匿埋納説に組みしたいが、それだけではすまない意味がありそうな気もしていて、網野説は捨てがたい。
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September 18, 2006
「考古学からみた信州と北海道」と題したが、信州と北海道とが特別関係があるというようなことをいいたいのではない。北海道の人が古代や中世の信州の遺跡の状況をみると、北海道の特殊性と考えられていたようなことが、実は東日本、とくに信州にもあったり、逆に北海道では普通と考えられていたことが特筆すべきことであったりするという比較の対象としての「信州と北海道」という意味である。
まず、中世北海道では在地の焼物がなくなり、本州から陶磁器を輸入していた。事実であるが、これを特段ネガティブにとらえる必要はない。と思う。なぜなら信州でも、古代後半から在地の焼物文化は廃れ、おそらく鎌倉時代は非常に限定されたものしかなかったようだ。だからといって陶磁器がないのではなく、周辺地域、東海や北陸から多量に「輸入」しているのである。私の見た感じでは、古代の各地域(国や郡)レベルでなるべく自給自足させ、また仮に特産品があっても都に集めてから分配するというような比較的統制社会的な感じから、縄文時代並み?にレッセフェールとなったため、その土地にとってより有利な産品に特化したような気がする。
それから、北海道の古代に竪穴式住居跡が多くでるが、これは信州とて同じである。竪穴式住居(建物)群が一般集落から消えてなくなるのは、信州でも城下町が形成されるころで、中世末でも竪穴住居群が掘立柱建物群と共存していた。文化の後進性といった問題ではなく、環境に適応した結果(冬寒い)であろう。
一方驚かされるのが、北海道の古代・中世の鉄製品の多さである。信州も決して東日本の中で少ない地域ではないが、質・量ともに北海道の遺跡出土の鉄製品の優越性には驚かされる。これは近世の漆器にもいえる。中世の鋳物の鉄製品や近世の漆器は、必ずしも北海道産とは考えられていないようだが、こうしたものを多量に購入できる財力があったのだ。渡島半島に限定されるのかもしれないが、大量埋蔵銭の存在は、北海道の特色になりつつある。(信州北部も大量埋蔵銭集中地域である)
ただ、遺跡における銭の多寡は、経済的に発達していたか否かの一つの目安にしかすぎない。たしかにある時期までおそらく戦国時代あたりまでは、実際大量の銭を所有していたことが富の象徴だったかもしれないが、どこかで、銭(銅銭)=冨ではなくなっていったのではないか。これは少しテーマが違うので別の機会に。
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September 03, 2006
8月に東京の国立国会図書館まで行き、いろんな漢籍資料を集める。今回は貴重書はあまりなく(貴重書の複写は時間的にできなかったのでメモだけ)、○○叢書に掲載されているような比較的メジャーな文献とはいえ、量が多かったので、結構大変だった…。
こんなものが考古学に役立つのか…?根が東洋史や漢文好きというのはあるので、そんなに嫌ではないが、どこでどう結びついてくるのかよくわからない。とくに女真人や契丹人がどんな作物を栽培したり、特産物はなんであるかなど。日本の考古学じゃ使えないか。でもまあ、河童が利用すると言うことなので、黙々とやってきました。
ところが、ひょんなことからそのときも複写した「盛京通史」「契丹国志」「大金国志」の出番が出てきそうです。信州と中国東北部は作物や特産品で少し似ているものもありそうです。厳密に言えば北海道と中国東北部が対比できるかもしれませんが、中国東北部でも遼東半島あたりは信州に近いようです。
例えば、馬が何を食べていたかなんて、なかなか日本の文献には出てこないので、日本で言えば古代・中近世の資料ですけどとても参考になりそうです。
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August 20, 2006
縄文時代の「流通」について考えなくてはいけないことになっている。まあ別に縄文時代の日本列島全体と言うよりはある特定の時期の特定のものの動きを追えばよいので、それほどむきになることもないが、それにしても「流通」の実態を知るのは難しいだろう。
どうしてそういう見込みがあるかというと、現代社会の流通をもし考古学でアプローチできたとしても、それはそのある非常に限られた一面だけである。そうやっていうと道路、鉄道、船、航空機といったものが現代社会には流通で用いられるので、非常に複雑であるということを言っているように受け取られるかもしれない。
勿論そういった面が現代社会の流通にあることは否定しない。その点、古代の流通というと地方からモノが道や川(あるいは海)を通して都に献上され、それが再分配されるようなモデルで説明すればそれなりに納得されるかもしれない。
しかし、縄文というとそういうわけには行かない。どこかに日本列島全体の中心があるようなモデルはさすがに描けない。トンデモ説的なモデルが多い三内丸山とてそうした縄文文化の物流の中心とまでいうような人はいないようだ。
つまり縄文の流通は地域どうしのモノの動きをモデル化しなくてはいけない。①汎列島的なネットワークがあり、これにのって動くモノがいくつかあること。②拠点的な集落(≒ムラ)があってそこに遠隔地からモノが入ってきて、周辺の小さなムラに再分配される。(これは定説とまでいっていないかもしれないが)というモデルを縄文でもある程度言えそうである。
しかし、おそらくこれは都という政治、経済の中心が出来た時代から今日に到るまで、都に集められて分配されない、つまり地域どうしが直接的にやりとりしている特産物的なものが結構あるのだろう。信州を舞台にして考えると例えばヒモノ、海藻製品などの海産物は、中世なら京都や鎌倉、あるいは近世ならば江戸、大阪に集まったものが分配されて入ってくるのではないだろう。縄文的な流通は当然古代以降あるはずだ。
次に、話がややこしいのは、普通山の幸と海の幸を交換するといったお互いの地域に欠ける物が流通して入ってくるのだろうが、山の幸、海の幸という対比(たとえば黒曜石と干し貝)はよいのだが、ちょっと気をつけないと見過ごしそうな交易もありそうだ。
例えば信州から出る木材あり入ってくる木材があるかもしれない。言葉でいうと「木材」だが、ヒノキがない地域にしてみれば、ヒノキは貴重な威信材となり、クリがない地域ではクリが威信材になりうるだろう。適所適材?(あくまでたとえなので、こうした実例があるわけではありませんが)
現代社会でもこうしたことはしばしば起こっていることで、親戚で長距離トラックをやっている人がいるが、行きと帰りで同じような材木を運ぶことがあり、それだったら各々の地域で地元産の材木を使えば、わざわざ運ぶことも無いのに(そうしたら仕事は減ってしまうのだが)と思ったが、荷主に聞けば、それぞれある目的には特定に種類の木材でなければ駄目なわけで、一見無駄なようだが、流通ではしばしこうしたことが発生するらしい。
あと同心円的なモノの分布状況(産地に近いほど多く、遠くほど少ない)は、わかりやすいモデルだが、人間の嗜好というものは、文化的なものや生態に左右されるので、食べ物などを見るとかなり斑な状況が見えてくる。(だから旅先で食べ物ばかり追っていると言い訳する)同心円的なモデル以外のモデルも徐々に構築したいものである。
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April 21, 2006
「縄文文化」(≒縄文式)はいつ出来たのか。土器型式の系統的なつながりを重視すれば、草創期にはできていたことになる。もし、草創期の土器型式が地域よってものすごく異なっていれば、縄文文化の始まりについての論議は、もっともめたかもしれない。
ただ、草創期の土器型式がのちの早期以降の土器の祖先であったとしても、唯一の祖先かどうかはまだ、論議する余地があると密かに思っている。これは縄文文化の範疇を考える上で重要な視点だろう。
さて、一方縄文文化が分裂?しそうになるたびに、統一的というか、文化的な共通性が生まれてくるように見える。土器もそうなのだが、石器にこの現象が見える気がする。縄文式石器という言葉を山内清男先生は「予言」した。氏はあまり具体的には示していないが、小林達雄先生の「第二の石器」が「縄文式石器」に相当するのかもしれない。
どういうことかというと(そんなに真面目に考えていないので、単なる思い付きであるが)、例えば早期のトロトロ石器(異形部分磨製石器)や前期のケツ状耳飾などが比較的良い例だと思われる。
例えば、石鏃などの利器(第一の道具)は必ずしも日本列島に限定されない。一方、第二の道具とされる石棒や独鈷石などは比較的汎日本的(日本列島の半分くらいは分布している?)のである。土器と違って系統性や相互の関連性を証明しにくいので、「縄文式石器」の研究は進まなかったのだろう(と勝手に推察する)。
ただ、トロトロ石器やケツ状耳飾が広域に広がった背景には、共通の文化的な背景があったと見てもよいのではないか、それは今我々が「縄文文化」と仮によんでいる日本列島の弥生時代以前の文化のことを示しているようだ。
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March 15, 2006
リンク: 井真成 - Wikipedia.
なにかおかしい「井真成」墓誌
考古学的には、出土状況とくに学術的な調査によらないものは、1級資料として使えない。「学術」的な調査といっても学術的にしっかりした調査報告がなければ、使えない。
せいぜい参考資料である。だから「井真成墓誌」もせいぜい参考程度のものだが、旧石器捏造で懲りていないのか、勝手に古代史上の大発見的な扱いである。
怖いのは、現代の捏造ではなくて、清朝あたりの考証学の成果を知っている人の捏造ということは無いのだろうか…。前近代の人びとの古典に対する素養あなどるべからず。
例えば、「吾妻鏡」あたりの文献でも中国の一部の知識人は知っていて、変な漢文だと思っていたらしいが、楽しんでいるらしい。「吾妻」=「東」の意味で「あづま」と発音することは明治になるまでわからなかったらしいが、発音はともかく読むのには問題はない。
いわんや「六国史」を読み込んでいた知識人もいた可能性はないのだろうか。
ふとなぜそう思ったかというとたまたま『続日本紀』に「延暦十年八月壬子壬子。摂津国百済郡の人、正六位上広井造真成賜姓連。」という記事を目にしたからである。延暦10年は791年だから、井真成墓碑の年代734年より約60年後だから、同一人物では当然無いが、この記事をヒントに、なにやら墓誌を作った可能性はないのだろうか…。
井真成墓誌に熱中されている方から見れば、同一人物ではないが、この人もどうも渡来系であるので、井のつく(広井)氏族に真成という名前があったのは、井真成実在説に有利に働きそうである。しかし、私は、なにかこうした出来すぎ的な符合は、かえって気になるのである。
いずれにしても、出土状況をどうして探索しないのかが、怪しさを増している気がする…
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December 24, 2005
考古学の用語って極めて基本的なものは考古学辞典に収録されないのが困ることが有る。
スポール(削片)もよく聞く言葉だが、この言葉からは辞書で引けない。
細石刃までたどり着ければ引けるのだが…。
ちなみに削片とは、下記HPによると
古代吉備を探るⅡ
連載第2回 石は物語る
文/岡山県古代吉備文化財センター 小嶋善邦
湧別技法とは木の葉形の両面調整素材(りょうめんちょうせいそざい)(①)を用意し、その素材の長い一側縁に沿って数枚の削片(さくへん)(断面三角形またはスキー状の削片)(②)をそぎ落とし、平坦な打面をもつ細石核をつくり、そして打面の一端から細石刃を剥離(③)する技術である。
同HPには図も載っていてわかりやすいが、要するに細石刃を石核から取るときに上部に平坦部を作るために、とる剥片のことのようである…。実用語辞典に採録するか…。
もう一つUF、RFっていうのもよく報告書で見るが(私も使うが)考古学用語辞典では引けないなあ。これらはまた別の機会に。
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November 08, 2005
リンク: 復原の記録.
以下リンクHPより引用。
>>文化財の「復原」とは、原則として創建時の材料・工法で傷んでいるところだけを繕い、もとの姿に戻すという意味があります。また、過去に改造や撤去により失われたものを、現在の材料を用いて復元する工事も同時に行われます。
なるほど…
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October 30, 2005
中国の著名な考古学者、中国社会科学院考古研究所元副所長、安志敏先生が病気のため、2005年10月26日2時50分、北京で逝去。享年81歳。
11月1日午前10時から八宝山公墓大礼堂で葬儀が開催されるとのこと。
20年前、京都に来られた安先生に一度だけ講義を聞くことが出来ました。講義のあと質問を本当にすぐ近くで日本語でしたのですが、当時は先生がどれほどの有名人かもしらないで、今から思えばもっといろんなことを話せばよかったと後悔しています。先生のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
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October 03, 2005
よくバブル崩壊後の日本を指して失われた10年というが、私にとっては、この10年間はどうだったのだろうか。
情報化の世の中とはいっても、考古業界も様子を見ている人がほとんどである(私も含めて)。新しい説を出したからといってすぐには反応がない(良いでもなければ、悪いでもない)。学生時代「ああ~、あの人はまた似たようなネタで論文書いているな…」と思ってみていたものだが、やはりそれはそれだけの理由が有る。
勿論、論文を量産したい人は一粒で二度おいしいどころか三度四度と書くのだろうけど、社会的?に追い込まれるというか、本人が忘れかけそうになると、いろいろアプローチや依頼があるのでこういうことがある気がする。だんだん世間も自分も熟成していく時間はどうしても必要らしい。
そこらへんどうしても著者と世の中には、タイムラグというか意識の差が有るようで、本人は論文を書く前段階が一番研ぎ澄まされている。(誰かに先を越されやしないかとか…)。ところが投稿して、掲載が決まって、ゲラ段階ぐらいになってくると段々興奮は沈静化しつつある。いわんやペーパーになっている頃には、興味は他の分野に行っていることがママある。それも、ペーパーになってから半年以内ぐらいに反応があるとよいのだが、2年以上たっていると、本人が忘れている(けなされている場合はまだしも、誉められたりしてもなんのことかよく実感できない)
それにしても、同じ考古学の分野でも時代や地域が違うとかなり手法が違うことがある。自分の得意なところでいっぱしの顔をしていても、違う時代だと気分は学部3年生くらいの気持ちに戻る。自分の不得意な分野について、熱心に弟子に聴いて勉強されている大先生がいたのだけれど、これってなかなか出来ないことだと思う。でも、それを間近で見ることができたので、おかげで私もちょっとはこういうことをやってみようと思う勇気がすこーしある。非常に幸運なことだった。
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September 29, 2005
中沢新一『アースダイバー』講談社をH安堂書店豊科店で立ち読みする。
もう、すでにいろんなブログやホームページで毀誉褒貶のコメントがなされているので、今更という感じもするが、一言。
いわゆる考古業界人や歴史研究者の反感をわざと挑発するようなタッチではある。かと思うと「僕の叔父さん」網野善彦さんの話が唐突に出てくる。なかなか引用文献もマイナーなところまでよく探しているように見える。
事実関係というか、遺跡を調査している私たちから見れば、いろいろ揚げ足を取ることも可能だろう。でも、サラリーマンに人気というから、世間に与える影響は並みの考古学者以上なのだろう。
それはさておき、何か私にとって非常に、残念なのは、本当はもっと違うネタ本にいろいろ影響されているはずなのに、全然触れていないことだ。(うがった見かたかもしれないが…)どーも全部自分の発見にしたいような気がする。でもそこは勇気を出して、ある程度正直に見せたほうが、中沢氏の度量の見せ所だったような気がする。小物は引用して、本当の大物は無視している(ように私には思える)。
少なくとも僕の叔父さんこと網野善彦先生はそうじゃなかった。肝心かなめというかそれを明らかにすると、中沢新一だけの「発見」じゃなくなるような気がしたのか…。
このことは、同じ書棚においてあった高橋大輔『浦島太郎はどこへいったのか』新潮社にも言える。マイナーな本は引用している割には、おそらく本当に影響を受けた本や史料を明示していないような気がするのは、私だけだろうか…。(この人の『ロビンソンクルーソーを探して』が好きだっただけに残念…)
とかく自分の発見にしたいのは、人の常だが、学問は言葉のキャッチボールなので、天上天下唯我独尊では、なりたたないと思うがどうでしょうか。
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September 19, 2005
先週からアメリカの形質人類学者の卵?Dさんが約1週間にわたって調査に来られた。形質人類学で、とくに縄文人と弥生人を研究しているという。こちらの英語力の問題もあって研究の詳細はわからないが、彼の研究の一つのテーマが何故縄文人が繁栄したのに、のちに減少したからしい。
アメリカ人からみると、弥生人が侵入してきたから縄文人が減少したという図式なら非常にわかりやすいが、彼でも、そうでないことは知っている。縄文中期にあんなに多くの遺跡があった東日本では、何故後晩期に遺跡が(≒人口)が減ったのか。
いくつかモデルを考えているようで、①病気。②環境の激変。③②に起因する食物の変化。④移住。東日本から西日本へ。らしい。それが骨からどのようにわかるのか、興味深いところではある。それにしても、日本語がほとんどわからないのに、どのように縄文文化の情報を得ているのか、不思議であるとともにちょっと心配である。
それと、日本にだけ興味があって韓国、中国、シベリアなどに興味があまりないというのも不思議だ。日本だけを特筆大書している(そういう風に言われると歓ぶ日本人が多いのだろう…?)。
来年も日本に来るそうであるから、是非日本語の勉強と東アジアの研究もしてほしいと願わずにはいられない。
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September 14, 2005
札幌の学会で、地質の人から貴重な話を聞けた。北海道の玉製品に一部使われているとされる「日高ヒスイ」であるが、これを岩石学的にいうと「透輝石岩」だそうである。うーん、なんと透緑閃石岩や透閃石岩(漢語的表現で言えば、軟玉)じゃないんだ…。
二重にショックなのは、まだ細かい分析が進んでいないので、実態が謎の点もあるが、とにかくだいぶ前に北海道の研究者(もちろん地質学)が「透輝石岩」であることは論文にちゃんと書いているそうだ。
三内丸山の装身具の分析を行った時に、すでにヒスイ(いわゆる硬玉)と「日高ヒスイ」(軟玉)と分析されたものは、あらためて分析する必要もないかと思い「つい遠慮して」それ以外のものを、EPMAなどを用いて「岩石学的な分析」を行い、産地を推定した(私は微量元素で産地を分析はしない。その理由については、また別の機会に)。
遠慮する必要はなかったようだ。これは人文科学系の人間のいけない習性だ。日高ヒスイは軟玉じゃないので、もし本当に軟玉だったらいわゆる日高ヒスイではないわけで、逆に本当に日高ヒスイだったら透輝石岩をいわゆる軟玉(透緑閃石岩や透閃石岩)と誤認していたわけで、非常に大きな問題である。この物理的な方法に問題が有る。産地は同定できるが、岩石自体の同定に問題があるのだろう。三内のみなさんごめんなさい。
これは、根本的に日高ヒスイといわれている玉製品を、やはり岩石学的にしっかり見直さないと、とんでもないミスを起こしているかもしれない。まあ軟玉だからといって、すべて飛騨変成帯起源とは限らないので、産地問題がすべて解決されるわけではないが…(北海道にも未知の軟玉産地が見つかる可能性がある)。
話は変わって硬玉、軟玉、碧玉といった岩石名の「漢語的表現」の濫用もこうした風潮(近代地質学の成果を軽視)し、なぜかお気楽な?物理学的な方法で産地を同定しようとする傾向に拍車をかけているようだ。
勿論、漢語的表現は、研究史的ないきさつもあるから簡単にやめられないのだが(私自身もなるべく断っているが、使わざる得ないことがママある)、だからといって近代地質学や岩石学の成果を無視してはならないだろう。
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September 12, 2005
近年、一部の岩石について、理化学的分析を用いて産地同定(含有微量元素などの特徴から)を行うことがだいぶ普遍的に行われるようになってきたが、これっていうまでもなく、対象の岩石がどういう岩石かわかっていて、かつこうした理化学的分析で産地同定を行うのに向いていることがわかっていて初めて意味を持つ。
とくに岩石を微量元素で分析する場合に、その岩石が例えば黒曜石(黒曜岩)のように均質なものであることがわかっていれば、かなり有効だが、粒粒の岩石、例えば花崗岩のようなものなどは、どこを測定するかで、まったく変わってくる。例えば雲母の部分を分析すれば、雲母の特徴がでるし、長石の部分を分析すれば、長石の特徴がでる。逆により広い部分を分析すれば、様々な鉱物の集合体の平均値(?)が出てくるわけで、それにどんな意味があるのかという場合もある。
今は産地が良くわかっていないだけで、産地が多くあると推定される場合は、対照すべきデータが完全ではないのだから、これまた産地同定は難しい。
だから、理化学的方法あるいは物理的な方法で産地を特定する作業を行う前に、岩石学的な方法が当たり前だが、これはどういう岩石であるのかをちゃんと知る必要がある。こんなこと当たり前かと思っていて、とくに『石の考古学』などのわかりやすい本まで出ているのに、未だに、蛇紋岩とはまったく違う岩石を蛇紋岩と強弁する考古学者が多いので、疲れる。
そもそも肉眼での岩石の同定は難しいのだから、わからなければ、わからないとしておけばよいと思う。
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August 09, 2005
三角壔土製品の壔は「つつ」(筒)の意味で使われているとのことです。
じゃあいっそ三角筒土製品もいいかも
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リンク: 信濃国分寺資料館 収蔵資料 (FlashPix Image).
三角壔土製品の壔(土偏に壽)。よみは「とう」意味は、①とりで②つか③つつみ。小さい城、一説につか。ゆえに土偏。(講談社『新大字典』)
一昨日質問されて答えられなかった質問。この壔(土偏に壽)の意味は…。漢和辞典ではよくわからない。考古学用語辞典を見る必要がある。
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August 08, 2005
小泉さん やはり解散しましたね。テレビ朝日では、一回の選挙に500億かかるとかで、牽制していましたが、国民に信を問うのはやはりよいことだと思う。(よほど靖国の恨みがあるのか。朝日は偏向しすぎ…)
話は変わって、郵便局の人には、博識な人が多い。特定郵便局長さんになるような人は大体地域社会の名士が多いからだろう。上田在住時代に、特定郵便局の局長さんとお話する機会が多かったが、一角の人物が多かったと思う。態度の悪い郵便局員は特定郵便局にはあまりいないような気がする。
たたかれることが多いが、郵便局の良い面としては、「郵政考古」なんて考古学の専門研究雑誌を出しているのもほほえましい。「教員」や「国鉄」などで考古学をやる人はいるがそれぞれ「教育考古」とか「国鉄考古」なんて雑誌は聞いたことがない。
私はどちらかというと銀行よりは郵便局の味方です。郵便局提供のテレビ番組は結構面白い。「パペポ」もたしか郵便局提供だったような気がする。ただ、私の個人的な偏見かもしれないが、民営化問題でいえば、特定郵便局の人たちが団結してJP(日本郵便)みたいな「会社」で頑張れば、私は決してクロネコや日通に負けないと思う。私はクロネコや日通の集配センターにバイトで行ったことがあるけれど、とりたてて社員が個人のお客さんの対応が良いというわけではなかった。
それに、これからは郵便局のネットワークで手紙や小包だけというのはもったいない。中国の郵便局だって、本や掛け軸、お土産などを売っていた。韓国では荷造りサービスもある。(適当に荷物を持っていくときれいに梱包してくれる。厳密には郵便局員ではなく、関連会社の職員らしいが)
特定郵便局長さんたちが、日本郵便株式会社の株主になって、幹部社員として働けば、名実ともに自分たちの会社という気持ちが持てると思う。優秀な郵便局の職員も少なからずいるはず。いろいろな創意工夫も実際にはあるような気がするので、簡単にクロネコや佐川にやられるとは思えないのだけれど(甘いか?)
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August 01, 2005
京都は暑かったです。昨日は和歌山。例の空飛ぶ鳥形埴輪を見てきました。タカなんでしょうか。基本的にトリ自体を知らないので、結局なんだかわかりませんでした。ただ、ついで?に念願の野上町小川八幡宮見てきました。どうしてこのお宮が平安時代信濃国で写経された大般若経を持っていたのか…。謎です。書写された年号を信用できそうなので、日本霊異記の記述(こちらは奈良時代の話ですが)もだいぶ信憑性が出てきそうです。
ある程度、お経が地域社会でも書写されていたことが近年わかりつつあります。秋に春日井で話をしようと思いますが、墨書土器なんかの文字も、単なる吉祥句というのではなく、仏典や漢籍からの引用の可能性を検討できそうな資料もありそうです。
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July 18, 2005
考古学に限らないが、クロートがシロートにモノを説明するとヒジョーにわかりにくいことが多い。マージャンが大好きなミヤサカお父さん(小沢昭一の小沢昭一的心のつもりで読んでください)。初めて家族マージャンをやることになりました。小学生のトオル君はわくわくしながら、お父さんに聞きます。
トオル「おとーさん。マージャンってどういうゲームなの」
ミヤサカ「トオル!マージャンはメンタンピンだぞ!最初はメンタンピンを目指せ」
トオル「???」
そうなんです。マージャンは13個の牌が手元にあり、1個を山から引いてくる。3・3・3・3・2(あたま)という固まりになっていて、3は同じマークで連続したシークエンスになっているか、同じ数字になっていればよい。ただし、その条件が揃っていてもあがれない(勝利できない)。自分の手に、「役」が一つは最低なくてはいけない。ミヤサカお父さんはその役には初心者はメンゼン(自分で積もってあがること)・タンヤオ(19や字牌がないこと)・ピンフ(連続した数牌を両面でまつこと)をすすめていたのでした。トオルも高校大学と悪友とマージャン三昧して、ミヤサカお父さんの言うことがわかったのでしたが、マージャン教師としては明らかに失格です。
ミヤサカお父さんに限らす、学者というか「研究者」と称する人も、こうしたトリビアルなところに力が入りすぎて本筋がひじょーに見えにくい。今日も質問されたのですが、火炎土器、火焔形(型)土器、火焔土器なんて、そこを専門とする人はうまーく使い分けている。しかし、一般向けに前提も無しに使わないでほしい。縄文時代の火炎土器研究者以外はまず知らない。(私も良くわからない)
それでも村上市教育委員会のHPにわかりやすい解説があったので助かった。
こういうことをいくら真面目な「研究者」に話してもわかってもらえない。自分が正しければよいのだ…。
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信州で「縄文」というと熱狂的なファンがいるので、大助かり?である。「縄文文化」の魅力はというとアンケートでは、
・現代とはまったく違った縄文土器の斬新なセンスに魅かれる。
・現代とは違った素朴な暮らしが興味深い。
・原始人だと思っていたら、非常に高度な文化を持っていたことがわかった。
などである。考古学ブームのおかげで、「縄文人=はじめ人間ギャートルズ」という図式ではなくなってきたのは好ましいことである。
ところがである。肝心の博物館の展示はどうかというとやはり現代の考古学者の発想の貧困さを反映してか、まったく食い気と色気だけの縄文人である。
貝殻、骨、木の実、植物などが出土すると「縄文人は何を食べていたか」
石器や骨角器なども「食糧採集や狩猟」にどう使ったか。
土偶、石棒などの用途がわからない道具は「縄文人の祈り=自然の豊穣、子孫繁栄」となる。
たしかに、食欲と性欲は人間にとっての二大根本的欲求であるから、縄文文化や社会の中で、重要な要素には違いない。しかし、これってどこか縄文文化を初めとする、無文字社会や文化を、見下している現代考古学者の発想の貧困さに起因してはいないだろうか。
漆工芸、ヒスイをはじめとする玉文化、豊富な石器石材に対する選別や知識、土器に見られる製作技術のレベルなど縄文人がどうも食べることや子作りに追われているだけの人びとには見えない。
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July 06, 2005
よくテレビで、犯罪捜査の証拠(遺体など)を調べるために、現場を掘り返している映像が出る。捜査上の秘密などがあるから核心の部分は映していないとは思うのだが、ちょっと気になる点が有る。
どうも該当しそうなところを端から掘り起こしているような気がしてしようがない。端から掘り起こして、土砂を篩にかけて遺留品を探しているようだ。土砂を篩にかけて遺留品を探すこと自体はよいのだが、やはり本当はどのように遺留品や遺体が埋まっていたかを観察、記録することも重要な気がする。
とくに地山を掘って遺体などを埋めている場合、普通に考古学的に調査すれば、かなり明瞭に見つけられるはず。なにせ縄文時代の墓穴でも見つけられる。勿論、土の状況にもよるのだが、縄文時代の墓穴でも、例えば長野県のローム層だったらかなり検出は容易だ。
あと気になるのはこうした「発掘調査」や鑑識にマニュアルみたいなものはあるのだろうか…。後学のために勉強させてほしいが、入手は難しいのだろう…。
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June 10, 2005
ロシア語でお金のことを「ДЕНЬГИ」(ジェーニギ)という。ロシア語をほとんど忘れつつ有る中で、記憶に残っている単語だ。
さて、このジェーニギなんとなく日本語の「ゼニ」(銭)と発音が似ていないか。そもそも、銭は音が「セン」で、訓が「ぜに」とされるが、菊(きく)、梅(うめ)、馬(うま)などと同様に、中国語の音が古くに日本語化されたために「訓」とされているものらしい。つまり、銭の古い漢語の音をうつしたのが「ゼニ」でやや新しい時代の漢語の音をうつしたのが「セン」ということになるのだろう。
さて、現代北京音では銭は「チェン」だが、古代の漢語の音では、「ゼニ」の元になるような発音だったとして、ロシア語のジェーニギがゼニと似ているのは、ロシア語のジェーニギが古代漢語の音から来ていることになるが、どんなものでしょうか。
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May 31, 2005
長野県立歴史館で現在開かれている『赤羽刀展』を見学して、刀剣には独特の用語が多いのにあらためて驚く。その中で目を引いた用語が「互の目」(ぐのめ)だ。
以前、縄文時代の押型文土器の研究者の方の話を聞いていたら、「この押型文は『ぐのめ』文のようだ」という表現にあたった。当時は「ぐのめ」というのが、方言かなにかと思っていたが、そうではなく、「互の目(ぐのめ)」とは「互の目垣のように一定の間隔で山や谷のかたちをおりなした乱刃」のことだそうである。
要するにきれいなジグザクの文様のことである。なるほど、納得。
リンク: .
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May 30, 2005
リンク: 絵画に描かれた関ヶ原合戦.
川中島合戦というと長野県では普通、武田側の視点で描かれることが多い。おもにそれは、近世の信州の大名、例えば真田氏にしても旧武田の家臣であり、徳川将軍家も武田の旧臣を抱えたことによるらしい。よって武田家にとっての『古事記』(『吾妻鏡』?)『甲陽軍鑑』の記述に従って多くの合戦図屏風は作られているらしい。
当然長野市八幡原の三太刀七太刀の図などは武田側の視点である。私も長く長野市にいるせいか、なんとなく武田側の視点が歴史的事実と思いがちだ。
しかし、上杉方の視点にはなんの根拠もないのだろうか。実は(というか合戦図屏風に詳しい人なら常識らしい…)上杉流軍学を修めた紀州徳川頼宣が、上杉側の視点で作らせた屏風があるふつう「紀州川中島合戦図屏風」とよばれる。(和歌山県立博物館蔵)
これは、なかなか美術品としても優れているので、合戦図屏風の展覧会ではひっぱりだこだし、最近は紀州の流れをくむものが長野市内でも展示されている(例えば、長野IC入り口の峠のかまめし「おぎのや」さんの中や篠ノ井の料亭にもありました)。
どうして長野市内で、最近人気が出てきたかと推測すると、勿論合戦図屏風であるから、篠ノ井、川中島の様子がどこまでリアルにかかれているかという点はあるのだが、ちゃんと抑えるべき所は押さえられていて、リアリティーを感じさせる内容になっている。
例えば、紀州本では御幣川で信玄と謙信が一騎打ちしているのだが、地元の人ならば、そういえば「御幣川神社」というのがあるとすぐ思い出す…。実際御幣川神社の由来を調べると、「江戸時代に御幣川付近の水路を開削すると甲越合戦の時と思われる御幣が出土し、これを八幡様の御神威と考えて、御神体として祭ったとある」御幣川神社の由来がどこまで信用できるか難しいが、江戸時代の絵図には御幣川神社が描かれているtことが少なくないので、紀州家の合戦図屏風の以外の情報で、「御幣川」で信玄と謙信が一騎打ちしたという情報がこの当地に残っていた可能性がある。
また、上杉軍の荷駄を御幣川で塩崎の百姓が奪うシーンが描かれているが、これも、どちらかというと上杉側に不利な様子であるが、これも想像をたくましくすれば、塩崎に江戸時代には歴史的事実として考える記憶が残っていたのではないだろうか…。
実際の御幣川(現岡田川)は、河川改修や水路の発達のためか、屏風のような大河ではなく、江戸時代は松代藩の絵図には「篠ノ井」とも呼ばれ、葦が生える湿地帯だったようだ。(今もウチの近所をはじめ、岡田川やその周辺には葦が密集しています)
とすると屏風では大河の中を信玄と謙信が争ったり、塩崎の百姓が活躍しているが、実は葦が一面に広がる湿地帯の中で、身動きが取れない状況で両者が苦戦している状況だったとしたら…だれか紀州本をもとに映像化してみませんか…
上越市 天下の謙信公
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May 17, 2005
NHK『新シルクロード』内容的には昔の『シルクロード』に決して負けないのだが、今一感動が少ないのは致し方ないか…。当時は映像そのものが衝撃的だった。
仏典の翻訳で有名な鳩摩羅什の頃のクチャ王国の民族は白人系であったという。アスターナの美女(?)も紅毛碧眼だったのだろうか…。テレビを見ていて思い出したが、シルクロードでも見つかるササン朝ペルシャや東ローマ帝国の金貨、それを死者の口に含ませる風習が有る。白人系の王国に、西方の金貨。従来は貨幣を口に含ませる風習は、西方起源とされてきた。しかし、近年中国の考古学者の中には、それ以前の中国の含玉の風習から来ているとする人がいる。ちょっと中国のナショナリスティックな雰囲気がなきにしもあらずだが、私は傾聴に値すると思っている。
実は、日本の弥生時代にも人骨の口の中にガラス玉が入っていた例がある。3世紀頃の例である。口に貴重なものを入れる風習はもともと東アジアにあったようだ。(さすがに弥生のガラス玉を口に含ませる風習をギリシャから来たとする説はない。中国の風習の影響だろう)
西方の貴重な金貨を入れたからといって、必ずしも西方起源の風習とは言えないという中国の考古学者の説に賛成だ。
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リンク: История Японии - Дзёмон; Религиозные представления..
昨日からはまっているロシアの合気道のホームページになんとдогу(ドグ・土偶)も載っていました。項目は「日本の歴史-縄文 宗教的観念」(by河童)だそうだ。
синто(シント・神道)なんていう単語だけはわかります。それにしても土偶と合気道にどんな関係があるのか不思議…。
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May 16, 2005
リンク: История Японии - Дзёмон; Керамика Дзёмон..
「合気道と武士道」のホームページになぜか、日本の歴史、縄文、弥生…江戸、明治時代がある。さすが考古学大国だけあって、いわゆる先史時代の項目が充実している。
モースの貝塚発掘にはじまり、山内清男もちゃんと紹介されている(by河童)。ちょっと画像が大時代で、今ならもっといい画像もあろうに…。それだけがちょっと残念。
ロシア人は、日本人と中国人、韓国人を比較的一般人まで含めて区別する貴重な人びとである。(アメリカ人やイギリス人あたりでそこらへんが怪しい人が多いのに比べて)合気道を知るために縄文文化からとは恐れ入りました。
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May 11, 2005
リンク: 日本霊異記.
古代史を研究しているかたなら六国史に通暁されている人は多いだろう。考古学者で古墳を勉強する人は日本書紀や古事記を読まなければ、話にならないだろう。
自分が小さい頃から慣れ親しんでいる日本の古典とは…。記紀と言いたいところだが、やはりこれは大学に入ってからだ。風土記や記紀以外の六国史も最近参照するようになった程度。うーむ、目をつぶってもすらすらとあらすじが思い浮かぶ日本の古典とは。ありました。それが日本霊異記、今昔物語、宇治拾遺などである。どうしてこういう本に通暁する(だいぶ忘れましたが)ようになったかというと、とにかく昔話(民話)好きだったので、その延長でこうした古典を読むようになったのでした。
私が中学生の頃(昭和55年と奥付に購入した年が書いてある)、今昔物語や宇治拾遺はいくつかのテキストが比較的手に入りやすかったのですが、日本最初の仏教説話集である日本霊異記は適当な本がなくて困っていたら、古本屋で角川文庫の日本霊異記が100円で買えた。これが安いのか高いのかはよくわからないが、とにかく中学生の小遣いで買えた事はたしか。書き下し文であるが、注釈が旧仮名遣いだったりして、当時私はかなり四苦八苦した覚えがあります。
しかし、なんだか不思議な話、Hな話など今昔や宇治拾遺とは違った魅力があります。ちなみに最近気が付いたのですが、荒唐無稽な話もあるのだが、実に当時の社会状況を描写している部分が多いことに気が付きました。有る意味風土記並みの情報がここには含まれている。仏教説話だから人の生き死に関する記述が多い。これって考古学の分析対象向き。
長野県は信濃国風土記が伝わっていないので、この霊異記には二條記事が有るので、風土記を補うくらいの価値が有る。
万葉集に信濃関係のものがあることは昔からよく知られているが、霊異記は史学の対象としては今一なので、ちょっと真面目に取り組んでみるか…。
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May 02, 2005
リンク: 大和國古墳墓取調室.
同ホームページのOBITOさんから長野市吉古墳群のことをいろいろ教えてもらう。近くにいるとかえって調べないものだ。
吉3号墳の線刻画やはり古墳時代のものとは考えにくいようだが、私は中世ぐらいだとしても興味深い。三千寺のこともあるし…。
歴史的事実かどうか別にして、現代の集落→近世の村落→中世の城館→古代の寺社→古墳と遡るのは善光寺平をはじめ長野県の各地で地元の人が当然のように遡ることを意識しているからだ。どうも考古学業界では、古墳時代と現代を別々に考えがちだが…。
それにしても、OBITOさんの線刻画の写真秀逸です。
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March 28, 2005
今日ドライブの帰りにたまたま上田市の信濃国分寺資料館にいってきました。ちょうど企画展「上田小県地方の弥生文化」(というような題名)を開催していました。
この信濃国分寺資料館は、私が中学生の時にできた博物館で、当時上田市国分に住んでいた私は地元割引?を利用して夏休みの自由研究におおいに活用させてもらいました。資料館の入り口右側にはってある全国国分寺瓦のパネルを模写して、瓦についてレポートしたものが中学校の雑誌に掲載されたのが、私の人生最初の考古学の研究?が活字化されたものです。この資料館に来るといつも懐かしい気持ちにとらわれます。
さて、企画展もすごかったのですが、常設展示の古代の瓦関係も非常に良かったです。私も近所で瓦を拾ったので、今度信濃国分寺資料館で鑑定してもらうことをお願いしてきました。
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March 27, 2005
久しぶりに土器の実測。やらないといろいろ忘れますね。本当に。実測も大事なんだけど、それ以上に大切なのが編集。沢山載せればいいってものじゃないのだけれど。
自分の認識では「縄文土器の研究」をしているつもりだけど、最近は忘れさられつつあるようなので、ちょっとはやっていかないといけないかも…。
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March 21, 2005
今回本当に久しぶりに関西の遺跡(ついでに巨大古墳も)巡ってみて、「歴史」とは時間の流れを目で見て実感することが重要ということがわかった。
歴史という時間の流れは、段階として意識されることが必要である。「○○時代」という考え方はすべて時間を階段的なものとして把握しようとすることにある。段階(階段)というのが適当でなければ、時間を区切るという発想が無いと永遠の時間の連続になってしまうかのようだ。
次に、それが目で見てわかるかということである。もちろん文献というような文字資料は重要だが、それがとくに人物や土地に代表される。○○天皇(政治権力者など)の時代(明治時代)、××に都(政治的な中心)があった時代(奈良時代)というように一目瞭然の目印がほしくなる。古代以降の奈良時代、平安時代、鎌倉時代…はその時代の政治的な中心があった場所で時代を代表させている。
これを古墳時代から奈良時代にかけての時代をつないで考えてみると(本来は違う原理で呼ばれている時代なのだが)、まず天皇で区切っていく方法がある。例えば仁徳天皇、欽明天皇、聖武天皇の御世(時代)とか。
ただ、ここで興味深いのはこの仁徳や欽明といったのは漢風諡号(奈良時代に淡海三船がつけたとか…)で、例えば欽明天皇の場合、日本書紀によれば「天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ」天皇(すめらみこと)と磯城島(しきしま)天皇(敏達紀)という呼び名があり、後者は欽明天皇が磯城島に金刺宮を置いて政治を行ったことによる。
ここで注目したいのは「紀」の記載に従えば、生きているうちは御名で○○天皇と呼ばれ(この○○は皇子の時代と同じ)、死後は××天皇と呼ばれる時の××は地名であることだ。
歴史として過去になったと認識された段階から政治権力者も「地名」に還元されてしまうようである。これは「続日本紀」などでも同じようである。
ただし、土地との関係で不思議なのはあんなに大きな古墳を作っていたのに、古墳の所在地で天皇などの名前を後世つけたりはしないのだろうか。
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March 14, 2005
明日(日付の上では今日)〆切りの発表要旨を仕上げる。千曲川の古代(といっても縄文時代から中世ぐらい。要するに文献史料が充実している近現代以前)のことを考えてみる。それにしても千曲川の近世以降の通船や木流し(波田陽区のことではなく、材木を川に流すこと)の研究が進んでいるので、大変参考になった。
今回は図の作成にフォトショップエレメントを使ってみた。だいぶ苦労したが、まあまあの出来になった気がする(図が…。内容はともかく?)
一応念のために打ち出し原稿と原図も大会事務局に送ろうとは思うが、それは明日おきてからにしようっと。もう寝ます。
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