« July 2009 | Main | September 2009 »

August 2009

August 27, 2009

「善光寺」はだれがつくったか

さて、肝心の「安曇族こぼれ話」の本の内容についてであるが、簡単にいうと、安曇族が信濃の古代寺院を作ったことに大いに力を発揮したという説だ。その例として明科廃寺や善光寺境内の「古代寺院」を想定されている…ようだ。

私は地元の豪族の協力なくしてこうした地域の古代寺院が建設できたとは思わないが、さりとていわゆる畿内系瓦を用いた古代寺院の建設にあたって当時の「中央の」(あまり使いたくない言葉だが、ここでは便宜的に)豪族や勢力抜きで作れたとも考えにくい。

考えてみれば当たり前で、今も大規模な公共事業は、大手ゼネコンが地元の建設業者を束ねてやることは珍しくないし、国土交通省やネクスコが地元の土木業者に発注することもよくあることだ。だから、「誰」が作ったかという論議は実は難しい。

子供のなぞなぞに「法隆寺は誰がつくったのか」という問いに対し、「聖徳太子」と答えると間違いで、正解は「大工さん」というのがある。まさにそれで、発注した人や指揮した人もいるが、設計した人、受注して施工した人、実際に組み立てた人、建設した人とさまざまな人が携わって大型の建設工事はすすむ。

これは古代寺院も一緒だろう。さて、その施工業者を束ねた大手ゼネコンにあたる古代豪族に安曇氏がいるのだろうか。明科廃寺については原嘉藤先生も安曇氏を想定されているので、前述の古代史研究者の推測もあながち的外れではないかもしれない。私は違う根拠から百済系の人たちとくに百済王氏の周辺の人たちの関与があったのではないかと思っているが、これもそれほど根拠があるわけではない。安曇は百済再興戦争の時に、百済救援に行っているので、百済王氏とは浅からぬ関係にあるので、別に安曇と百済王氏が協力してもかまわないとすら思う。ただ、これを考古学的に証明するのは、今のところかなり難しい。百済王氏はともかく、安曇は地名や文献にはそれなりに出てくるが、考古学的な証拠から何をもって安曇氏が信濃にいたのかを証明する証拠とするのかがよくわかっていないからだ。これは今後の課題だろう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 24, 2009

ネリー・ナウマン先生の埴輪研究

ネリー・ナウマン先生の論文を読む。

ドイツで、日本研究者からすすめられた埴輪に関する論文である。ネリー・ナウマンと言えば、縄文の図像学とでもいうような、土器の文様や土偶の解釈や山の神の論考ではなんとなく知っていたが、縄文文化をなんでもかんでも記紀神話で解釈しようとするような気がして、一時、少しは読んではいたが(もちろん邦訳)、ちょっと見当はずれな指摘が多いような気がして、遠ざかっていた。

たしかに縄文は先生が考えるほど、記紀神話ですべて解釈できそうもないというか、先生が利用できた縄文の資料はとても断片的である(これは時代の問題もあるし、先生は普段ドイツにいて、日本の資料を簡単に直接見ることができなかった)。

しかし、今回の埴輪の解釈について、記紀を縦横に引用しているが、私は縄文の土偶の解釈よりずっと的確で、先生はなかなか私たち日本の考古学者にはない視点があることは確かだ。

高天原はどこか。なんてことをとにかく考古学的にアプローチしようとしていて、興味深い。(久米と久米歌)ただ、縄文、弥生、古墳文化というのは、文化の捉え方としてそれなりに有効なモデルではあるけれども、古墳より弥生、さらには縄文となるとさまざまな文化をひとまとめにして、○○文化と言っている可能性がある。まあ、大きくとらえることをしないと古代日本文化論みたいなものは語れないとは思うが…。いずれにしても、大きな刺激を与えてくれたことには違いない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

遺跡としての寺院跡の名称について

知人から古代信濃に関する本が出たからと進められる。「信濃安曇族こぼれ話」(坂本博・近代文芸社)である。

善光寺境内から古代瓦が出ているのに、そこをなぜ古代寺院と呼ばないのか、さらにはなぜそれを古代「善光寺」と呼ばないか、坂本氏は疑念を抱いている。これは考古学界に隠微な理由があるのではなく、単に学問上の慎重さから来ている(と私は思う)。つまり、信濃国分寺跡ぐらいになれば、寺院としての伽藍が発掘調査で確認されている。考古資料や文献からそこが古代の信濃国分寺跡と推定するに足る証拠があるので、信濃国分寺跡と初めて呼んでよい。しかし、いかに現在善光寺という寺院があっても、古代瓦が出土しているだけでは、そこが寺院であったか断定できない(官衙や駅屋などの可能性もある)。さらに100歩譲って、寺院跡だったとして、当時善光寺と呼んでいたかの証拠がない。

だからといって、善光寺境内に古代寺院が、それも善光寺と関係がある寺院がなかったと強調したいわけではない。考古学の遺跡の名称は、いったんつけてしまうとそれが独り歩きするのを恐れるから、○○廃寺(この○○には現在の地名がはいる)などと中立的(予見を刷り込まないため)な名称をつける。

いわゆる「仁徳天皇陵」を、考古学の遺跡(古墳)としては、大山(あるいは大仙)古墳と呼ぶのと同じである。

ただ、坂本氏が直感的に?感じたように善光寺境内の古代瓦を、古代寺院とは関係ないさらには渡来系氏族との関係では考えたくないというバイアスは学界の一部には確かにあるような気もするが、こういうことはそういう感じがするといくらいっても埒があかない。

まどろこっしいけれども、学問的証拠を積み上げていくしかなさそうである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« July 2009 | Main | September 2009 »