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June 2008

June 21, 2008

涙と笑いの築地魚河岸三代目

松竹の往年の名作シリーズものと言えば、「男はつらいよ」であるが、この男はつらいよ、純粋にただ笑ってみていられましたか。

小学生のころ、お正月と夏休みには映画に行くという風習が我が家にはあった。おやじ抜きの場合はハリウッドものなどの大作が多く、おやじが一緒の場合は、「男はつらいよ」を何回か見に行った。

そのころ仕事で多忙なせいか、せっかく映画館に行っても、居眠りするせいか、おやじは大作ものだと映画のあらすじがわからず、頓珍漢な感想に終始するので、子供としてもおやじと映画を見るときはフーテンの寅さんが無難なんだと思っていた。

ところがこの「男はつらいよ」が鬼門の場合がある。決して下町育ちではないんだけれども、おやじの場合、映画の中で寅さんのことを笑うシーンで、どちらかというと寅さんの味方になって、私たち(母、私、弟)と口論になる場合が多かった。(たとえば有名な寅さんのメロンねた。寅さんが不在の間にマドンナがメロンを手みあげに持ってきたが、いつ寅さんが帰ってくるかわからないので、皆でメロンを食べてしまった。食べ終わったころに寅さんが偶然帰ってきたので、皆でメロンの皮を隠す。しかし、偶然寅さんがメロンの皮を見つけて、まさかマドンナが来たとは思っていないので頓珍漢なことをいう。今年のスイカは変な形をしているとかなんとか。するとおいちゃん、おばちゃん以下良心の呵責に耐えかねて、マドンナが手みあげをもってきたが、寅さんがいつ帰ってくるかわからないので、食べたと謝る。しかし、マドンナがらみといういつもの舞い上がっている状態で変にテレているといことに加えて、自分がのけ者にされたという怒りでごまかそうと、大人げなく例のごとくおいちゃんたちやタコ社長と大喧嘩になってしまう。大意)

確かに寅さんが正しいのだが、ここは大人げない寅さんを笑うシーンなのだが、ある意味本気で寅さんの味方をするので閉口する。映画の意味がわかんないんじゃないかと子供心に心配した。

ところが、後年どうして寅さんの見方をしたのかがわかってきた。おやじも寅さん同様に人一倍テレたのだ。テレ隠しにこういう悪口雑言を言ったような気がする。

さて、いよいよ本題、築地魚河岸三代目。これまた寅さん同様シリーズ化するようだが、またまた狙い目が寅さんと似ているようである。エリート商社サラリーマン(赤木旬太郎:大沢たかお)が、恋人(明日香:田中麗奈)の実家、魚辰(築地の魚仲卸)を手伝うことに、会社での出来事もあって、商社をやめてしまい、なんと魚辰の三代目を継ぐことに…(詳しくは映画館でどーぞ)

映画で描かれる築地の人びと(たぶんだいぶ誇張されているのとは思うのだけど)、実際にもしその中に私が入れば、なんというか人情押し売りのようで、たぶん旬太郎のように順応するんじゃなくて、反発するんだろうと思うのだけれども、やはり映画はよくできている。一連のドタバタが涙と笑いなしには私は直視できない。

バカバカしいんだけれども、うまくできているなあ。釣りバカ日誌(西田敏行)の方がもっと純粋にとんでもサラリーマンを笑えるんだけれども、このテレ隠しの涙と笑いのツボをつく、寅さん路線はどうも築地魚河岸三代目が継いでいるようだ。(久しぶりにビックコミックの連載の方がどうなっているのかチェックしてしまった。)

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June 16, 2008

おそるべき太王四神記

日頃私のブログは、アクセスカウントの数ではなくて、純粋に人の数だと20人くらいである。それでもまあよくこんなブログを読んでいる人がいるかとわれながら驚く。

ところがもっと驚いたのは6月3日と6月4日はそれぞれ500ずつのアクセスがあった!!なんじゃこれ。

調べてみると全部なんとペヨンジュン、太王四神記がらみであった。おそるべし…。

単にアクセス数増やしたい人は、ヨンさまネタだとアクセス数増えますよ…。

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June 14, 2008

ウィーン愛憎・意地悪は死なず

中島義道先生の名著「ウィーン愛憎」を読む。私は留学経験はなく、長くて3週間、最短だと3日程度の海外旅行を繰り返しているだけだから、外国での意地悪やカルチャーショックはそれほど体験していない。

中島先生、山本夏彦翁と好対照だと思う。山本翁は「フランスと日本は、違うこともあるが、基本的に同じ」と見るのに対し、中島先生は「ウィーンと日本は、共通することもあるが、基本的に異質」というスタンスに立っているように思える。どちらかが正しいのではなく、ものの見方の相違である。

私はどちらかというと山本派である。基本的に日本人と外国人、私と他人同じはずはないのであるが、変なところが共通しているのである。外国でいやだな~と思ったことは実は、あらわれ方は違うが日本でも困ったな~と思っていることが強烈な形で再現されていることがある。

たとえばロシアの給湯室?で女の子がシクシク(こっそり)泣いていた。会議では彼女はポーカーフェイスであったが…。ロシア語はよくわからないが、なんとなくシチュエーションでわかる。ロシアでも職場のいじめがあるんだな。たぶん。(とロシア語の先生も言っていた)

一方、中国ではその職場の官僚的支配者を見出して、その人がOKするといろんな話が驚くように進展する。(これも日本の役所や官僚的大組織ならたいがい同じ。)まだ、中国の国家機関や大学の研究者は権力を持っている人もいるので、よいが、東アジアでは研究者はたいがい「あいつは好きでやっているんだから」ということで、事務職員(つまり金を握っている部局)に頭が上がらない。

挨拶、贈り物などなどそのあげ方が多少違うのであるが、別段日本と本質は変わらない気がする。日本だってここ30年で利益供与の仕方が代わってきただけで、利益供与のなにを利益とするのかが変わっても供与自体はかわならいし、これらかも変わらないだろう。

30年くらい前なら酒を飲ましてもらえば非常にありがたがったはずだが、いまや酒の飲みすぎは健康に悪いから控えたほうがようくらいになっていきている。別段酒を飲むことがステータスでも、ありがたくもないくらい日本の経済が発達しているので、利益供与にならなくなってきている。

たぶん白い巨塔のように、名誉や地位といった少しひねったものに形を変えてきているからややこしいのである。(文化人類学で白い巨塔を題材にこうした論文を書かれている方がいたと思う)財前助教授のように現金ばらまけばよいならある意味気楽だし、私はそんなに財前が悪い奴には思えない。ただ、今日では金をばらまくみたいな利益供与が「文化的に」いけないことになっているからダメなまでだ。便宜を図るとか人を紹介するとかだったか、全然かまわないし、むしろ「美談」である。財前は正直すぎて嫌われるのである。現金にはそういう魔力がある。でも見方によっては現金の方が、潔くてよいという考え方もできるんじゃないか。(公務員としては失格だろうが)

さて、中島先生がウィーンの図書館、大学、家主、日本人学校などでカルチャーショックを受けている。先生も大変だと思うが、こうした役所や支配的な人の高圧的態度は日本でもそういう場にいて、自分がそういう立場であるとそういう仕打ちを受けるようになっている。中島先生は日本では東京大学の大学生であったので、仮に予備校の先生であったにしてもそうした意地悪にそれほど合わなかっただけである。ウィーンの人は東京大学のありがたみがわからないので、ある意味、日本でも名もない一般人であれば、受けるような仕打ちを受けたのである。(大昔の国鉄、諸悪露見以前の社会保険庁、かつての某図書館、大学の研究室などなど)

こうした公的施設を一般人を装って利用すると、徹底的にやられることがある。日頃業界人として利用するのと、一般人として利用するのとではどのくらい差別があるのか、リアルに実感できる。

「相談受けます」というコーナーに相談を受けにいったら、担当者は、本当に露骨に私のリファレンスに嫌な顔をしていた。(退職教員で、専門の司書じゃなかったらしい)しかし、一方で同じ質問を違う公的機関の現地機関に聞いたら、面白がってくれてこちらがびっくりするくらいよくやってくれて、その成果が論文になったくらいだ。しかし、両者に実は本質的な差はないのだと今にして思う。両方とも同じ人間のそれぞれの面だ。

逆にリファレンスだとかそういう言語的な表示を信じすぎてはいけない。博物館や大学だからものをよく知っていると思ったら大違いで、市役所のおよそリファレンスとは関係ない部局にすごい情報があったりする。(ただ、近年の日本の図書館はよくなってきているので、図書館にものを聞くというのはお勧めする)

ただ、日本では同じ意地悪でも外国ほどの不快感がないのは、理由がある。ひとつには、言語やボディーランゲージなどの態度の示し方が違うので、雰囲気を察するのは非常に難しい。たぶん日本国内では言語プラス非言語的情報を合わせてトラブルを無意識のうちに避けるのだと思う。

よいたとえではないかもしれないが、中国で外国人に親しげに話しかけてくる人にあった。こちらの語学力のなさもあってほとんど話がかみ合わないと思っていたら、その人が立ち去った後、ガイドさんが「あの人は、知的障害の人ですから、お気を悪くしないように」と言ってきた。なるほどそうだったのか。日本だとある程度話せば、話している内容以前に、雰囲気(非言語的情報、服装など)からわかるのだが、外国だとこうした文化要素の認識が非常に難しく、単に親しげなのか、ものを売りつけようとしているのかなどがわからない。むやみに言語的情報に頼ることになってしまい、トラブルやカルチャーショックを増大させているような気がする。

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June 01, 2008

今日(きょうび)の中国の挨拶事情

挨拶と言えば日本のお家芸かと思いきや、それはあくまで知り合い同士の話で、今や赤の他人同士とは挨拶はあまりしなくなっている。

ところが、中国では、公共の場所(鉄道、ホテル、バス、食堂、学校などなど)で、你好、謝謝、不好意思、不謝など教科書で習う挨拶が、実際の中国人はあまりつかわないなんて一部の日本人は言うが、どころが案に相違して、実際の中国人が実によく使っているように見受けられた。それも見ていてすがすがしい。

ロシアでもそうだったが、列車やエレベーターで見ず知らずの人と挨拶するというのは、これこそ「文明」である。

旧ソ連では、ソ連人とロシア人は異なるという説明がよくなされた。日本では、それは虚構であるという説明もよくなされた。しかし、必ずしも虚構ではないと私は思う。ソ連が崩壊しても旧ソ連諸国の人々の連帯感はある程度維持されている。同じロシア語圏というのもあろう。もうひとつ注目すべきは、日本や韓国のように日本人や韓国人の範囲が一かゼロではないことだ。なんとなくグラデーションになっているようだ。

中国で不思議な体験をしたことがある。どう見ても日本人から見れば欧米系の容姿の人がいて、私たちとは英語で話をしていたのだが、たまたま私の知り合いの中国人とは流暢な中国語で話をしていて、その欧米系の人が立ち去った後、中国人の人たちに私が(仲良く話していたので)「あの人アメリカ人だった、それともイギリス人だった」と聞いたら、真顔で「いやーあの人は中国語が上手だし、中国のことをよく知っているから、中国人に違いない。」と主張する。私もちょっとむきになって「でも、その前に英語を流暢に話していたよ」というと、「最近は英語を上手に話す人も多い」とこれまた割合まじめな顔で反論する。

単にからかわれただけのような気もするが、中国人=漢族ではないよい例の気がする。私たち日本人は中国人=漢族と思いがちだが、多くの少数民族を含めて中国人である。(中には中国人はいやだという少数民族の人もいるのかもしれない)

日本人とか韓国人とかいう概念と人間(人類)という概念の間にはとても大きな空間があるような気がするが、中国人という概念と人類という概念の間にはそれほどの間がない。また、その境界は幅広くあいまいな感じだ。ただこれはどちらが正しいという問題ではない。それぞれの歴史と文化がはぐくんできたものだろう。

日本人より個人主義だというが、公の場での自然な挨拶や会話だけを見ても、中国人概念は思ったより機能していると私は見る。

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