胡同(フートン)の理髪師
長野市内の映画館で「胡同の理髪師」というのが上映されているので、見に行く。先日みたBeautyでも予告編をやっていた。北京の下町、胡同の住民の素顔が見れるか…
予告編で強調されていた「チンおじいさん(胡同の理髪師のこと)の周りにはさわやかな風」は吹いていなかった。やはり予告編は日本人が作ったのかあるいは、日本人受けを狙ってはまりすぎているのか、実際の映画の感触とはまったく違う気がした。
「一見ドキュメンタリーかと思うほど」
「庶民のヒューマニズムが満ちていた」などなど
いやこの映画はそんな生易しいものではない。「チンおじいさんの周りにはブラックな風が吹いていた」
むしろ私は「北京好日」(原題「找楽」)を思い出した。チンおじいさんは実に「悟り」なんかまったくない。むしろ江戸時代の職人気質に近い。この映画が胡同の正しく描写しているとすれば、胡同の北京人気質って江戸っ子に通じるところがある。短気で口が悪い。(だけどその裏に人情がある)
この監督のすごいところは、一見ドキュメンタリーに見えてしまうが、すべて計算づくしなところだ。劇中「ゴッドファーザー」がテレビで流されている場面があることからもわかる。ゴッドファーザーももちろんドキュメンタリーではないが、思わずドキュメンタリーかと思ってしまう、一種独特のリアリティーがある。皆さんだまされていはいけない。やはりこれは素晴らしいフィクションです。実際の日常を撮影してもなかなかこうは撮影できない。すべて監督の力だ。
いろんなシーンが印象に残るが、私は唐突に仏文学「ティレーズ・ディスケルー」を思い出した。ティレーズから見ればだめ夫が実はそれなりに胆力のある人であった。
チンおじいさんの息子は、チンおじいさんから(あるいは観客から)みて一見風采の上がらぬダメ息子、愚痴をこぼして年老いた父から小遣いをもらっている。ところが、最後自分の失業中の息子に子供ができたと知らせにきて、これまた父が祝い金を出そうとすると、今度は受け取らない。また父であるチンおじいさんが用意した葬式の準備をさっと「俺があづかっていくよ」とさっさととりあげる。そして「今日は単に連絡に来ただけだから」と帰ってしまう…。
私は監督は、一見親不孝そうなダメ息子であるが、そうではない。ダメ息子なりの人情や孝行心を描いていると思う。なかなかうまくできている。こうした人間の二面性をうまく描いている。一見悪そうなやつが、実はいい面もある。(その逆もある。)そして、それがないまぜになっているのが人間だ。
チャオさんの隣のおばさんも、最初チャオさんを面倒みるいい人、ところが、チャオさんが黙って息子の家にいったとチンさんに怒る・やはり金目当ての悪人か。しかし、チャオさんの息子の家出の仕打ちをみると、いかにも自分を欲深そうに見せるおばさんは、露悪趣味的な部分があり、多少は欲もあるんだろうけど、その根は善人なのかもしれないと考えさせる(本当のところはわからない)。
あともうひとつ、チンおじいさんが気になっている街頭の床屋(角ガリ大王)。チンおじいさん仕事の行き帰りにいつもちらっとみる。商売敵で気になるのか(あるいはそうかもしれない)。しかし、最後なぜ気にしていたかわかるのだ。チンおじいさん床屋の名人ではあるが、自分の頭をカットはできない。これは他人にやってもらうしかない。自分のお眼鏡にかなったのだ。チンおじいさんは客として角ガリ大王にやってもらう。この大王、チンおじいさんのお眼鏡にかなっただけのことはあって、実に自然だ。威張るでもなく、卑屈でもなく。客にいい気持になってほしいって感じだ。
カラッとした風の中に、中国人の人情が描かれていて、私は魯迅の文学作品をついつい思い出してしまう名映画だと思う。


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