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December 2007

December 31, 2007

ブログの常連?さまへ

アクセス解析というのがあり、当ブログにも常連さんがいることがわかる(ちなみに誰であるかはわかりません)。よほど暇な人か、それとも熱心な人だと思います。本の場合、「本屋で(購入せずに)立ち読みする人もありがたい読者と思え」という言葉があるそうです。ブログもたまたま見てくださるだけでなく、こうして定期的にチェックをいれてくださることはありがたいことです。

ただ、どーもこのブログだけでなく、親HPの海東青の考古学や信州考古学探検隊もそうなのですが、平日昼間見てくださる役所?関係の方が多いようです。私としては大歓迎ですが、くれぐれも上司の方に発見されないよう、ご注意ください。(遺跡データベースならよいでしょうけど、当ブログはまずいかも?)

いよいよ、年末年始に少しはまとめて仕事(大掃除+執筆…?)をすすめたいと思います。

皆様もよいお年をお迎えください。

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December 29, 2007

便利帖にいれたいHP

近年飛躍的に進歩中の?東北アジア研究に便利なホームページを二つ発見。

http://skkucult.culturecontent.com/
海東盛国渤海
渤海関係の典籍にあたれて便利。
コンテンツの関連文献には旧唐書、冊府元亀などの画像データあり。

http://seiwatei.net/index.htm
青蛙亭漢語塾
漢文学習には便利なHP

皆様もご活用ください。

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December 02, 2007

国とクニ

国とクニは本来別概念であったということを過日述べた。ただ、おそらくクニが「郡」という言葉が日本語化してできたものであったとすると混同しやすい概念でもあっただろう。

さて、起源論はともかくどちらが上位概念であったか。『隋書倭国伝』に従えば、都斯麻国、一支国、至竹斯国、秦王国という具合に国は限定されているのに、軍尼は120人というのだから、クニの方が多かった。クニは国造のこととも言われているが、まあ後の律令の郡レベルではなかったか。

とすると7世紀(あるいは6世紀後半)には国>クニではなかったか。ツシマやイキのように弥生時代の「国」規模のままの地域もあるがツクシ国は弥生時代の奴国や伊都国そのものではなく、九州島あるいは北九州全体の国であったろう。

魏志倭人伝の頃の構造も実は似たようなものではなかったか。対馬、一支、伊都、奴などの国はおそらく律令の郡レベルの大きさであり、例外的なのが邪馬台国であったろう。それでも列島の倭人社会を邪馬台国だとは決して言っていないので、どう考えても邪馬台国は隋書倭国伝の国規模であって、九州島全体やいわんや西日本全体を統合した国ではなかったろう。

そうしてみると、赤い土器の「クニ」というのが桁外れに大きいことがわかる。邪馬台国に匹敵する規模なのである。仮に赤い土器のクニの実体があったとしても、邪馬台国支配下の一国のような規模だとは私は考えない。邪馬台国に匹敵する例えば狗奴国レベルではなかったか。(内実はともかくとして、領域的には)

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December 01, 2007

那須国造碑と上野三碑と百済王氏

先日の日本玉文化研究会栃木大会の現地見学会で、那須風土記の丘湯津上分館へうかがい、会実行委員会と学芸員さんのご好意で、侍塚古墳と那須国造碑を見学できた。

見てびっくりしたのは、那須国造碑は日本最古であるだけでなく、その保存状態が極めてよいことだ。

あらためて感じたのは、多胡碑との類似性である。同じ古代東山道ルート上にあることから似ていてある意味当然である。

それぞれ紀年がある。那須国造碑は永昌元年(則天武后:689年)から11年後の庚子歳(700年)に那須国造韋提が死去し、その直後に建立されたとすれば8世紀初頭、多胡は711年に多胡郡建郡のことが見えるので、8世紀前半以降の建立となろう。つまり、那須国造碑を参考にして多胡碑を建立したと考えるのが自然だろう。

それぞれこうした碑を建立した背景にはそれぞれの地元勢力の助力が無ければ建立は難しかったと思われるが、こうした形式の碑を日本で建立するノウハウを有していたのはいわゆる朝鮮半島系(渡来系)氏族のかかわりがなかったと考える方が難しいだろう。(もちろんそんなことを言っている人はいない)

では、その渡来系氏族が誰かとなると、なぜかどちらも新羅系という言葉が出てくる。新羅系の土器が出ているという意見ではあったが…。

新羅系土器が仮に出土しているとすればそれは考古学的には一つの見識である。しかし、私はそうした細かい遺物の検証と同時に遺跡からも考えてはどうかと思う。

この時代の渡来系氏族がかかわった最たる遺跡とはそれはうたがいもなく寺院であろう。それと石碑の建立をもう少し大きい範囲で見てはどうかというのが私の提案である。

どういうことかというと、建碑の直接的な動機や背景はそれぞれの郡レベルの都合であるが、こういう文章をいれた碑を建てるという背景は、その郡レベルだけとは考えにくい。

それは寺院にもいえる。勿論寺院の場合もピンきりであろう。豪族の氏寺として従来作っていた古墳のかわりに造営されたレベルから畿内系の瓦を用いて、郡を越えるような範囲の勢力によって建立されたものまでいろいろである。

下野の場合、那須国造碑におそらく先行して下野薬師寺が建てられている。下野薬師寺は鬼怒川流域で、那須国造碑は那珂川流域で同じ下野国とはいっても別地域であるそうだが、郡を越えて行うような事業を背景にしていたとすれば、単なる地域勢力だけの力ではないだろう。(在地の勢力の力は侮れないのであるが)

かといってヤマト王権のおかげですというのも、東京のテレビが全国で見れますといっているのと同じで、本当の歴史的背景に迫っている気がしない。私はこうした奈良時代以前(おそらく奈良時代後も)の広域の新しい文化の導入にはいわゆる渡来系氏族とくに百済系の人たちの力が大きかったと思われる。とくに新羅系や高句麗系の人たちは、国司などを歴任するような人はほとんどいないのに対し、百済王氏は何人もの人を輩出している。

現代にたとえて言えば、高速道路をそもそも計画するのは国や国土交通省であるが、実際に建設に携わっているのは道路会社(ネクスコ)であり大手JVである。しかし、現場で実際に働いているのは私達のような出先であったり、中小建設会社なども参加している。

この図式が石塔や寺院にもいえないか。天皇やヤマト王権が企画して、地域豪族が受け持つのであるが、様々なノウハウや技術者をアレンジして、導入するのが渡来系氏族、とくに百済王氏の役割を重要視していいのではないか。百済王氏は現在のネクスコやその前身の日本道路公団的存在に私には思える。

道路公団の毀誉褒貶はまだ定まっていないが、戦後の高速道路整備をもし道路公団抜きに語れないように、東山道沿いの畿内系瓦を出土する寺院や石碑・石塔の建設に百済王氏がまったく携わっていなかったとは私には思えなくなってきているのである。

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