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November 2007

November 27, 2007

ウマとクニの古代史

まったくの日本語と思われている言葉のなかに、大和言葉(倭語とでも言ったほうがよいか)ではない言葉がある。その多くは古墳時代以前の日本には存在しなかったものを表す言葉らしい。

①ウマ(馬)、ウメ(梅) 【それぞれ現代中国語では、ma3、mei2(hua1)】
②ゼニ(銭)、ラニ(蘭) 【同様にqian2、lan2】
である。古代中国語の発音の詳細は私にはよくわからないが、マやメイにウが語頭ついてそれぞれウマ・ウメになったパターン①とゼンやランにイ音がが語尾についてそれぞれゼニ・ラニとなったパターン②があるようだ。

中国語の授業で、十二支の午の説明をするときに午馬(wu3ma3)というので、その時は日本語のウマは「午馬」から来たような気がするがどうもそう単純ではないらしい。

日本語では単音節の単語というのは本来無かったためか、みな二音節化するために①の場合(ウマパターン)は語頭にu音が付き、②の場合(ゼニパターン)は語尾にi音がついている。

これは今でもある現象で、子音で終わるのを日本語は嫌がる。長野オリンピックの入場券を売る外国人のダフやがticket(切符)を「tiketto」(チケットォ~)と「o」音を強調していた。興味深いのでそのわけを聞いてみると、ダフ屋の元締め(日本人らしい)が、英語の発音そのものだと日本人には切符のことだと分からないので、語尾にo音をつけて強調すると通じると教わっているとのこと。なるほど。

cat→kyatto、dog→dogguと語尾に母音が付くのが日本人には自然に聞こえる。

さて、私が最近気にしているのは、クニという言葉が②のパターンではないかということである。その語源はずばり「郡」である。これは私の発見ではなくて、たしか岡田英弘先生がどこかで指摘していたと思う。郡は現代中国語(北京語:jun4)であるが、語尾にi音がついてクニになったのではないか。

さて、いつクニという言葉が発生したかというと、遅くとも7世紀には成立していた。『隋書倭国伝』(巻八十一 列伝第四十六東夷倭国)に軍尼が出てくる。「有軍尼一百二十人,猶中國牧宰.八十戶置一伊尼翼,如今里長也.十伊尼翼屬一軍尼.」この軍尼は普通クニのことを示していると考えられている。(現代中国語の北京音でも郡と軍は同じjunである。日本語でもおなじく「グン」と読む)

その後段に「都斯麻国,迥在大海中.又東至一支国,又至竹斯国,又東至秦王国」などと出てくるのであるから、国と軍尼はこの段階(6世紀末から7世紀初)の日本では、区別されていた可能性が高い。

つまり国と軍尼(クニ)は中国人からみると別のものであった可能性が高い。

魏志倭人伝はもとより漢書にも日本列島に「国」があったことが指摘されているが、これはあくまで「コク」であって(厳密にはそれに相当する古代漢語)、「クニ」ではなかっただろう。

このクニが仮に②のパターンで中国語の「郡」が日本語化されて「クニ」になったとしたら、それはいつか。理論的には弥生時代から飛鳥時代の間ということになるが、私は弥生時代の可能性があると思う。ただし、クニはあくまで古代日本人が認識したカテゴリなので、中国人の目からみると、春秋戦国あたりの古典的中国の国に相当したのではないか。また漢代は郡国制をとっていて、中央政府の役人が派遣されて収める「郡」と漢室の親藩(初期の頃は、譜代もあったが、後に廃止)が納める「国」があったから弥生時代の日本人の目には国と郡は区別しにくい存在であったかもしれない。

話かわって、千曲川流域に俗に「赤い土器のクニ」があったなどと比喩されるが、この「赤い土器のクニ」は「邪馬台国」の「国」に匹敵する大きさであると思われる。伊都国、末盧国、奴国などはのちの律令の郡レベルのおおきさであり、これは赤い土器のクニのなかの佐久や上田といった小盆地レベルの大きさに相当する。

私は弥生時代の邪馬台国(邪馬台国の弥生時代といったほうがよいか)は、日本列島を統一するような勢力であったとは到底考えにくい。逆に「赤い土器のクニ」(千曲川流域+甲府盆地)ぐらいだったとすれば、邪馬台国所在地問題も自然と見えてきそうである。

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November 24, 2007

数九

私たちの中国語の先生が面白いことを教えてくれた。立冬から数え始めて9日づつを、例えば1日~9日を「一九」、10日~18日を「二九」、19日~27日までを「三九」と呼ぶそうである。以下春になるまで続く。

寒さを表現する時に、今は「三九」だから××だというような言い方をするらしい。

十干十二支も今の若者はよく知らないそうである。十二支のほうは、「你属相什麼」(あなたは何年生まれですか」と聞けば、誰もが答えられるから、年の十二支だけは生きているそうだ。(これは日本も同じ)

ただ、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」が本来(農業の)暦の順番も示していることは知られていないし、例えば「子」一文字がネズミを示すという意味もあまりない?ので、例えばウマ年の場合「午馬」(wu3ma3)のように表現するという。

日本の「ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」にあたるのが、「鼠牛虎兎龍蛇馬羊猿鶏狗猪」であるそうだ(支と現代語を組み合わせて午馬・酉鶏などとも)。

トリが鳥ではなく、鶏であり、猪がイノシシではなく、あくまでブタだそうである。この点(とくに後者は注意しなくてはいけない。とのことである。

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November 22, 2007

はーとふる南部

ありがたいことです。

長野市立南部図書館(篠ノ井)の広報誌はーとふる南部は考古学特集です。

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November 17, 2007

昔話の考古学

神話の考古学については、近年いくつかの本が出ていて目が開かれることが多い。(森先生の日本神話の考古学など)

ただ、「神話」は対象が古代の話という前提がある。例えば日本神話の場合記紀に収録された奈良時代の頃にはそういう話があったということがいえる。つまり神話の描いている世界が、古墳時代か弥生時代かはたまた縄文時代かはおいておいても、少なくとも古代の人がそういう話を知っていたという最低限のラインがある。

その点、「昔話」(民話)は、「昔」の話だが、どの程度の昔かはよくわからない。たしか柳田邦男が足利時代(室町時代)より遡らせるのは難しいだろうという指摘をしていて(今、直接の引用を見つけられない。識者の叱正を乞う)、なんとなく自分も中世後半あたりか江戸時代の話なのかと思っていて、古代に遡らせるのは難しいだろうと思っていた。

しかし、聖書の地名由来譚などは聖書が編纂された頃のものが今も伝わっている場合を考えると、日本でいえば弥生時代くらいの伝承が生き残っているわけである。伝承の命が必ずしも短いとは限らない例である。

日本にもこれに匹敵する伝承はいくつかある。日本神話(神功皇后や日本武尊など)の中にもいくつかありそうだが、いわゆる中世のお伽話に採用され、謡曲の世界にも影響を与えた「浦島子」伝承がある。

日本書紀に断片的にあり、万葉集や丹後国風土記逸文といったものにも見られる。遅くとも奈良時代には成立していたわけであり、それいぜん例えば飛鳥時代くらいに遡る可能性すらある。

日本書紀、万葉集や風土記の資料がかけていて、中世の御伽噺の浦島太郎からしか残っていなければ、到底話の表層だけから、浦島太郎が古代に遡るとは推定できなかっただろう。

このほか竹取物語なども思ったより古いかもしれない。

マンガ日本昔話などのイメージが強く、どうしてもこうした民話の舞台を武士の時代、柳田が指摘するような室町時代以降を考えてしまうが、コアの部分(昔話の深層)は古代にも遡るものがいくつかあるような気がしている。

それは、遺跡周辺に遺跡とかかわる伝承がある。古代の遺跡の性格とかかわりそうな例がいくつかある。これは遺跡が集落などとして現実に機能していた時代のことを知っていなければできない話がある。勿論その多くは集落が埋もれて長い年月がたってしまったものが多いのだろうが、それにしても古代の遺跡が田畑になった中近世に記憶だけ残っていて、それが民話化されたというプロセスも考えられるが、それ以上にそもそも民話のコアになるものが存在していて、それが一方では遺跡となり(遺跡のような我々が土地に刻まれた痕跡として認識できる形で残存し)、他の面では伝承という形(人々に語り継がれるという情報として残存する)なることもありはしないか。

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November 15, 2007

桑抜(かんぬき)の清水

現在調査に加わっている佐久市西近津遺跡群で先日現地説明会があった。深さ1m50cmを越える大型の土坑を説明して「この地域は水に苦労したようですから、あるいは井戸や雨水をためる穴だったという説もあります」と紹介したところ、地元の方から、この遺跡の西側に武田信玄ゆかりの「かんぬきの清水」というのがあると教えていただいた。

さらに、現場でこの話を紹介したところ、いくつかの情報が取り寄せられた。Mさんから「小諸の民話」(小諸児童文学の会編)を貸していただいた。これに「桑抜の清水」の話が載っているという(桑抜とかいて「かんぬき」と読む。)

戦国時代の名将武田信玄が川中島の戦いで苦戦して甲斐に引き返す時に、小諸の和田で水を所望し、それを飲んだところあまりのおいしさに驚き家来にどこの水か聞いたところ、和田の「かんぬき」の清水であるという。

その後、信玄は上洛の途中、病床に伏し、自分の寿命を悟って、かつて元気だった頃を思い出し、和田の水を所望したが、家来が和田は和田でも小諸の和田ではなく、和田村(黒曜石で有名な)の方の水を誤って持っていってしまったところ、信玄はかんぬきの清水の水ではないと見抜いた。家臣は驚くと共に水の味の違いがわかるほどであるから、信玄はまだ大丈夫ではないかと思い。また、是非とも元気になってほしいと小諸の和田のかんぬきの清水を汲んできた。ところが、今度は信玄の最期に間に合わなかったという。

という話である。

このほか、ウグイスになった三姉妹、乙女と泉など私が古代に遡る可能性や遺跡とかかわりがあるような話もいくつか収録されていて興味深い本である。


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November 13, 2007

カール・ウィットフォーゲルの征服王朝

カール・ウィットフォーゲルは、リンク先のウィキペディアによれば「ドイツで生まれアメリカに帰化した社会学者、歴史学者。フランクフルト学派の一員であったほか、東洋史、とりわけ中国研究において活躍し、「征服王朝」の概念を提示したことでも知られる。」という。

『オリエンタル・デスポティズム』(東洋の専制主義)は訳書もいろいろあり、人口に膾炙しているが、 Wittfogel K. A.,Feng Chia-sheng(馮家昇) 1949『History of Chinese Society Liao (907-1125)』 American Philosophical Society をもっと取り上げる人がいてもよい気がする。

おそらく社会史や東洋史では、古典的な作品のためいまさらということだろうが、考古学者にも結構参考になる。遼や金の研究では日本では島田正郎、田村実造、三上次男といった諸先生の社会史や文化史の著作があるが、ウィットフォーゲルは馮家昇の力を借りて、様々な文化史や社会史の記事をうまくまとめている。

私は遼や金の専門研究者ではないし、今後も専門的に研究することはないだろうから、こうした本とくに原典に遡れるようになっている本は助かるのである。いくら的確にまとめてあっても原典に遡れないような本はダメである。(少なくとも私は使えない。使わない。)

それにしてもウィットフォーゲルに大きな影響を受けたはずの江上波夫先生が「騎馬民族征服王朝説」と銘打ったのはジャーナリスティックな才能が先生にあった証左である。ウィットフォーゲルの用語から言えば「騎馬民族浸透王朝説」の方が的確であったかもしれないが、これではたぶん本も売れなかったし、論文もそれほど読まれなかったかもしれない。

ただ、征服王朝と銘打ったために、遼金あるいは元などのイメージで語られることが多くなってしまったのは、デメリットのほうである。またウィットフォーゲルの原著がなぜか邦訳されていないこともおそらく英語の原本は、アメリカンの古本屋から取り寄せたが、なかなかの大著で、騎馬民族論に関わったような考古学者も皆が皆、ウィットフォーゲルのこの本を読んではいない気がする。(別に読まなくても江上説の毀誉とは直接関係はない気もするが…)

ただ、少なくとも田村実造、三上次男先生といった東洋史の大家が参考にはしたはずなのであるから、もっと紹介(できれば邦訳)されてほしいとも思う。


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November 12, 2007

空気の研究

最近はやりの「KY」は「空気読めない」の省略という。当然この「空気」とは地球上の大気のことではなく、人間集団の中で発生する雰囲気のことである。

空気といえば、当然故山本七平(しちへい)氏の「空気の研究」が当然下敷きにあるのだと思う。しかし、それを知ってかしらずか、あまり触れる人がいない。(ヨメの話だと中島義道先生はNHKラジオで「KY」と「空気の研究」について触れていたそうだ)

先日の爆笑問題の国会もどき番組でも空気を読めないということで人を排除してはいけないという主旨の「法案」が出されていたが、今のイジメ問題に話の中心が転化されてしまっていって、山本七平が訴えた、日本の戦争に突入していったときの「空気」の問題に触れる人が無かったのは(あるいはいたかもしれないがカットされていたのかもしれないにしろ)極めて残念である。

山本はおそらく日本のマスコミが触れられたくない嫌な部分をついているためにこうしたことが起こるのだと思う。山本やその「空気の研究」に触れてはいけない空気が発生しているのだろう。

山本が指摘していることであるが、空気が発生していない場にいる人間にとって、空気はまったく読めないから、空気に拘束されている人々は喜劇的にさえ見える。

ただ、空気がなぜ発生するかというメカニズムを考えてみると、イスラム社会のような絶対神との契約があるようなでは、伝統や宗教的権威の拘束が強くて(ある意味強すぎることが近代化を阻んでいるが)、逆にヒトラーや日本が戦争に突入したような摩訶不思議な状態にはなりにくい。

空気の発生を抑えるための処方箋として山本は「水をさす」という行為をあげている。空気という実体とかけ離れた理念的な世界に対して、実体に根ざした現実的な問題を指摘することである。

「鬼畜米英→日本の誇りを保つために、開戦」という「空気」に対して、「だけど戦争といったって先立つもの(例えば石油)が日本にないからなあ」という「水」を差す。しかし、この水を差すという行為自体が日本人のおそらく宗教的感性の中では誉められたことではない。ネガティブな行為なのである。

何も国政だけではない。私達の身近に空気が発生し、空気が私達を支配しているのだ。まさに、空気が読めない人が指弾されている昨今の状況からこのことを知ることができる。

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November 07, 2007

書き下ろしと書下し

書き下ろし(かきおろし)とは、広辞苑によると「新しく書くこと。また新しく書いた作品。」とある。一方書き下す(かきくだす)は「順に下の方へ書いてゆく。また、漢文を仮名交り文に書き改める。」ことである。

どういうわけか、私の頭の中で、この二つがごっちゃになっている。カキオロシというべきところをカキクダシといってしまう。

A「今度の本は、論文の再録中心ですってね。」
私「一部分はカキクダシなんですよ。」
A「???。カキクダシってことは結構難しい本なんですね…」
私「???」

ということがママある。

最近はさらに悪化して、書き下ろしというべきところを「読み下し」といってしまうんだから、もっと意味不明である。

一旦頭の中に間違った回路が出来てしまうとなかなか直らない。これを機会に直したいと思う。

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November 06, 2007

シナノムラとヤマトムラ

11月3日(土)と4日(日)銅戈7点、銅鐸1点が出土した中野市柳沢遺跡の現地説明会に行った(事情があって両日とも…)。

銅戈が7点も出ていて、銅鐸は破損した1点だけなのに、どうしても群衆の話題は「ドータク」になる。ドウカは今一イメージがわかないらしい。

早速すぐつかえるネタを探す。高杜(たかもり)神社へ行く。柳沢遺跡と高杜神社の背後にあるのが、高社(こうしゃ)山である(たかやしろともいう)。「杜」と「社」似ているのでよく間違えられるそうだ。

飯綱と飯縄(ともに「いいづな」)、麻績と麻續(ともに「おみ」)似ているのでよく間違えるが、地名や固有名詞は要注意だ。

地元の人が、「柳沢遺跡はむかしのヤマトムラにあたるが、なんか関係はないのか」という質問をしていた。「ヤマトムラ!?」宇宙戦艦ヤマトのムラではない。漢字で「倭」と書く。

前日、職場で遺跡の位置を地図で探していた時に「倭小学校」というのを見つけ、「ワショウガッコウ」かそれとも「シズショウガッコウ」かなんて言っていたのだが、なんとずばり「ヤマト」と呼ぶのか…。

そうすると俄然気になってくるのが、旧倭村のとなりが科野村(しなのむら)である。それぞれ中野町が発足する以前の旧村名だそうだ。(ちなみに科野小学校もある)

ヤマトを「倭」、シナノを「科野」と表記するのは、おおまかにいうと律令期以前だろう。その境が銅戈・銅鐸出土地点だったりして…。

ところがその後調べてみるとともに明治時代になって付けられた名前のようだ。安曇にも倭(やまと)村があったが、こちらも明治時代の命名のようだ。どうも明治時代に復古調というか国学の振興を反映したような命名があったのかもしれない。残念。

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November 03, 2007

未来世紀ブラジルと忠直卿行状記

未来世紀ブラジルという映画がかつてあった。実は私は本編を見ていないが、予告編を見た感じとウィキペディアのあらすじからすれば、ジョージ・オーウェルの「1984年」を彷彿とさせるような映画らしい。

だから、本当は「1984年」(こちらは読みました)でも良いのだが、映画の題名として「未来世紀ブラジル」は、大江健三郎の「万延元年のフットボール」のように、意味不明であるが、心に残る言葉なので、こうした近未来の情報管理社会の恐怖について、言うときには「1984年」ではなく、「未来世紀ブラジル」が頭に浮かんでくる。

さて、枕はともかく、グーグルほか検索エンジンで調べると、かなりの個人情報まで調べることができることは、インターネットに詳しい人ならいまさら言うまでもないでしょう。ただ、どうして管理する側が、それも対した部局でもないようなところまで、情報管理をしようとするのか。

私は、それは一つにコミュニケーションが取れていない部局ほど激しいと思う。これだけコミュニケーションの道具が発達(電話・携帯・メールなどなど)がしていて、交通機関のアクセスも非常に便利なのになぜか。それは道具の問題ではない、心の問題はいつの世もあまり変わらない。

情報を統制したり、管理したい側の心理がうかがえるのが、菊池寛の「忠直卿行状記」である。松平忠直は、家臣を信用できず、家臣の真実の声を聞こうとして、身を滅ぼした。

たしかに、主君と家臣が腹蔵なく話すということはありえない。かといって情報をスパイしたり管理したからといっても、真の声は聞こえないのである。人は本当のことを話すことはないからである。(なかなか本当のことを話すことができないからである。例えば悪口を言っているからといって、それが真の心の声とは限らない。逆もある。)

よほど主君たるもの、心してほしいものである。

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