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July 2007

July 30, 2007

富山と中国

 今日は現場が雨で中止ということで早目の夏休みを一日いただいて急きょ富山へ行く。中国の考古学の先生方の講演会を聞きにいくためだ。富山県は遼寧省と交流があるということで、うらやましいかぎりだ。長野県も河北省と姉妹県・省なのだからこうした交流があっても良い気がする。

 なかなか盛だくさんの会で、とても勉強になった。あまりに濃密な内容で、少なくとも半日くらいの時間がほしかった。

 中国語の通訳さん(朝鮮族)から貴方の朝鮮語はソウルマル(ソウル方言)ですねと言われて、一瞬誇らしくおもったが、通訳さんは続けて「でもとても親しみやすいですよ、なまっていて…。全羅道訛りがあって…」と。ガーン!ショック!!予期していたことであるが、やはり全羅道なまりがうつっているとは…しかたがない。(中国語がなまっているかは指摘されなかった。まあそれほど話さなかったからか…)

 話かわって、締切りをひと月間違えていて、もうとっくに締切りがすぎてしまっていることを富山のF先生からうかがう。まあ、もし知っていても、締切りに間に合わせて提出することは無理だったろう。幸い?F先生もまだ提出していないとのこと。うーんがんばって私もいまからでも間に合わせなくては。

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ファンタジーとリアリティー

 「河童のクゥ」見てきました。子供向け専門の映画ではなく、大人も十分楽しめる内容でした。小学校低学年にはちょっと厳しい部分もあったかもしれませんが、児童文学の場合でもよくいうように、大人が十分楽しめるものでなければ、いけないとも私は思います。ですから、これでよかったとは思う。
 原監督のリアリティーの追究は、ある意味心配になるほど。ディテールがしっかりしている。それは単に映像だけではない(もちろん東久留米や遠野の風景はロケをしてしっかり観察したものだと見ていて思う)。テレビ局の人が、クゥにパンツを履かせて出演させる時の雰囲気なんか、なるほどと思えた。私は実際のテレビ局の人をそれほどしらないが「さもありなん」と思わせる。これこそが「リアリティー」だろう。
 一方でもう少しファンタジーもほしかった。というか荒唐無稽さか。まあ河童自体が十分荒唐無稽なんですけど。例えば、どうしてクゥが上原家にいることがばれるのかを、私だったらこう考える。

 クゥが来てからみそやしょうゆ、米櫃の米などが減らなくなって、食費を心配した上原家は一安心。安心したおかあさんは、クゥの好物のきゅうりや新鮮な高級刺身を毎日のようにスーパーで買う。それを見ていた近所の人が「異変」に気がつく。

 というのはどうでしょうか。そのほか、原作にあった「神通力」や河童は江戸時代になかった食べ物、たとえばマヨネーズが食べられないなんてエピソードもいれてほしかった(スポンサーに遠慮した?。そんなことはないかもしれませんが…)。

 それにしても、現代日本人のイヤーな部分がよく描かれていた。上原家の人びとも決してただの善人ではなく、欲深い(少しですが)小市民であったのは良かった。唐突だが、宮本常一の「忘れられた日本人」を思い出した。クゥやキジムナーこそ「忘れられた日本人」であって、現代日本人の方が、魂を忘れた妖怪なのかなとふと思わせてくれる作品だった。

 河童はウソをつかないと映画で語らせていた原監督。またどこかに生き残っているかもしれない河童を探して、その上でケイイチたちに会いにくることになっていた。是非というか必ず続編を作ってほしい。でないと欲求不満が爆発しそう?

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July 20, 2007

なんとか図を仕上げる…

 最近アクセス数が倍程度に増加しているが、アクセス解析によるとなんと「カッパのクゥ」のアクセスが急増していることが判明。クゥの話題を取り上げればよいのか…。今日はクゥ弁当が夕飯である。当然それではたりないので、ほとんど酒のつまみと化していた。なかなかおいしい。封切は28日とのこと。小串鉱山見学の日と同じ…。選挙もあるし。市会議員や県会議員選挙などと違って、候補者が遠い存在なので、今一。まあだけど選挙権は行使しよう。せっかくだから。

 なんとか図を仕上げる。古代信濃には木曽は含まれていなかったと言う説が有力らしいが、かといって岐阜の人達は古代美濃国恵那郡に含まれていたという意識はあるのだろうか…。山口村問題がなんと郡レベルで古代にも悶着があったらしい。考古学がこの辺に発言できるとおもしろいのだが、信濃国の範囲を示すメルクマールになる考古資料ってほとんどない。(凸帯付四耳壷くらいか)

 最近仕事のペースがどうしても落ちてきて、秋に向けてのノルマが厳しくなるが、なかなかやる気が起きない。そういう時は、ついつい翻訳にはまる。それも自分の専門じゃないと結構楽しいから不思議だ。

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July 14, 2007

言論の自由

 言論の自由が中国にあるか。そりゃ日本に比べるとないとお思いの方も多いと思う。

 はたしてそうだろうか。日本でも世間が気に入らないこと(政府ではありませんぞ)を公に発言することは難しい。これが出版物や論文となれば、世間に読まれてナンボであるのだから、ますます世間の欲しないことを書くことは勇気がいる。

 山本夏彦翁は世間に嫌われるようなことを言うのだけど、文筆業として成り立っていたばかりではなく、熱烈なファンも大勢?いたのだから、不思議である。
 
 自分は文筆業ではなく、書いたもので徒食しているわけではない一介のサラリーマンであるのに、自己規制が働くのは不思議だ。

 締め切り間近になると、余計なことを考える。この連休で仕上げなければ…

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July 02, 2007

いろんな友遠方より来る

今日は本当にいろんな遠方の友が来る(あるいは来る連絡)日であった。長野も本当にインターナショナルになってきた…

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July 01, 2007

ナマコ

 過日、中国の空港でオモシロいものを見つけた。ナマコである。中国語で海参。環日本海文化におけるナマコの意義は興味深い。(詳しくは鶴見良行『ナマコの目』)「最初にナマコを食べた人は度胸があった」というが、おそらくナマコの強い生命力にあやかろうとして、食べたのではないかと思う(最初から味を期待したのではなく)。
 ナマコとくにホシナマコを「海参」とするのは、人参(朝鮮人参)と味が似ているからだそうだ。人参も不老長寿の薬効があると信じられているから、海参もそういう効果があると信じられているのだろう。

 ロシアのウラジオストックの中国名は「海参●」(●=山冠威旁)、日本語に訳せば「ナマコ湾」といったところか。あのあたりが発展した理由の一つに、沿海州の山の資源以外に、海の幸があるとすると興味深い。

 「ナマコの目」という興味深い本がある。著者の鶴見良行先生は一般教養の経済学を教えておられていて、私の授業ではナマコではなく、バナナの方を取り上げていた。今読んでみれば、先生の「バナナと日本人」という著書もオモシロい。

 しかし、当時先生はあまりに大きなクラス(たぶん200人以上はらくらくいた)の授業に辟易していた。そのためか「出席しなくても、試験を受ければ通す」という方針で、最初の方は雑談的な授業であった。私もそのころは先生の著書や研究の内容をよく知らず、あまり出席しなかった。今考えれば惜しいことをしたものだ。私が卒業してしばらくして先生は亡くなられた。

 話かわってナマコによく似た考古遺物があると、ヨメは主張する。だけど、その資料は、私としては山谷を伝わった文化の産物で、おそらく海辺部を中心に分布する?ナマコやその文化とは分布がことなるから、似ているというだけで関連性を問うのは難しいだろうと日ごろから反論している。

 しかし、考えてみると、タカラガイ自体は当然海岸の貝塚などに多いが、タカラガイ形「土製品」となると、海より山の中にある。そうなのだ、山谷の人びとは自分たちに無い物に強烈にあこがれる。だけどそれを学問的に証明するのはなかなか難しそうだ。

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思想の自由

 アメリカや日本には思想の自由があり、旧ソ連や中国には思想の自由はないというのが、かつての冷戦時代の西側諸国の通念であった。ある意味正しいが、本当にアメリカや日本に思想の自由があるのか。アメリカのことはよくわからないが、なかなか社会通念に反する意見を(反倫理的あるいは反道徳的な問題でなくとも)表明することは勇気がいることである。

 「曲学阿世」なんていう四字熟語があるのは、おそらく学者というものはほとんど曲学阿世であるからだ。皇帝などの地上の絶対的権力者の意に反することを唱えることは難しいが、それでも「殉教者」になってそういう道を選ぶ人は稀にいる。しかし、世のなかや民衆を敵に回すことはもっと難しい。とくに「絶対神」なき日本において、例えば「民衆が常に正しいとは限らないどころか往々にして道を誤る」というテーゼは、既存宗教からみて必ずしも反倫理的な主張ではないが、民衆が大半のこの世では、受け容れられない。(もちろん一般論的に言っている分にはなんの害もないものと思われるが、これが個別具体的になった時は怖ろしい…)

 政治家はともかく学者とくに象牙の塔の中にいるような人が曲学阿世になるのか…それがなるのである。学者といえども大半は学界という学者の世間に活きていて、学界も世間から独立していることはありえない。それに欧米はいざしらず、日本では学者は世の中に食べさせてもらっている人びとと世間は思っているし、学者もそう思われていることは百も承知であるから、世間に厳しいことなんていえるはずもない。原子力発電所をなくして大企業や政府を懲らしめろまではよいが、用もない凡人から自動車を取り上げろというような主張はできない(少なくともいいかたをマイルドにするか変えなくてはいけない)

 アカデミズムとジャーナリズムの対立というように学術の世界と世間を対立的にとらえる見方もあるが、たぶん物事を手続きを重視して、じっくり(のんびり?)考えたい人と直間的にせっかちにとらえて判断したい人の差に過ぎないだけで、本質的に両者はあまりかわりがないと思うのだがどうだろうか。

 ただ、ものは言いようで、これは人はみな「時代の子」であるといえば、絶望的な感じがしないから不思議である。逆に世のなかたいていは時代の子であるとすると、共産党の人たちが暴力革命を志向したくなるのも無理もない。時代の子=(凡人)は保守的であり、迫害されていても自分たちの行動様式や思想を変えたくない。だから世の中を変革しようとする人はどこか病的である。聖書はいう「偽預言者に気をつけろ」と。しかし、真の預言者がいても凡人には区別がつきにくいのである。

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