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April 2007

April 22, 2007

体罰抜きの懲罰

日本テレビの「太田総理と秘書田中」で学校における体罰の是非が論じられていた。

私の意見と言えば、当然体罰は反対である。それはなにも厳しい教育に反対だからではない。学校を世間と違う規律で律するのに反対なだけである。

たとえば、会社で営業成績が悪いとか遅刻をしたとかなどの理由で、社員を殴る上司がいたらどうか。

もっと悪質な業務命令に違反したとしても、殴ったりしたら、やはり殴ったこと自体は暴行で訴えられるであろう。

ただ、そうは言っても相手が暴力を振るってきた時に自己防衛まで禁止すべきではない。社長や上司が不当に殴りかかってきたら、身を守るための暴力というか自己防衛は許されるべきだ。

いずれにせよ、社会一般の規範と学校内の規範をなるべく一致させるべきであると私は考える。いくら生徒が悪いといっても、そのことで体罰を与えてよいというような権利を教師に与えてはいけない。教育の手段としての体罰など論外である。

それでもおそらく実際には体罰を学校内で行っている場合もあろう。その場合黙認できる範囲は、体罰を行っていることを知っているがそれでも生徒が自発的意思によって学校内の任意の集団に属していたいと思う場合のみである。これはあまり容認したくないが、学校の中に自由意志で離脱可能な集団(クラブなど)があり、生徒自身が自分が強くなりたいとか甲子園に行きたいとかの理由で指導者の体罰を甘受する場合は黙認されると思う(私はまっぴらごめんだが)。繰り返すが、その場合でも生徒が嫌だと思ったらいつでもやめることができ、それが教育を受ける権利を制限しないことが保証される必要がある。(野球部をやめたら学校にいられなくするなど論外)

話は戻って体罰はいけないとしてどうやって学校の規律を守るか。一つは、体罰ではない懲罰を容認すべきだ(といって言葉の暴力を認めているのではない)と思う。私は寮生活をしたことがあるが、門限を破った時、一回目は食堂の皿洗いであった。二回目は外出時間制限で、三回目か何回目かで退寮であった。その他説教、草むしりなどがあった。寮をやめてもほかの寮に入ることは可能だ。(勿論寮側が入寮を拒否することもありうる)

私は、懲罰の方法をいろいろと考えるべきだと思っている。あくまで法令順守であるべきだ。前述のテレビ番組で金先生(体罰容認派)がおっしゃっていたように、他の生徒には授業を受ける権利もあり、それが著しくおかされるようでは困るのである。荒れている生徒にも理由はあろう。しかし、それを体罰や暴力で押さえ込むだけというのは確かに考え物であるが、だからといって教室で暴れていられても教師も困るし、真面目な生徒も困る。学校というシステムは一人のため(ごく少数の人のため)にあるものではない。団体生活であるから、規律というかルールを守る必要がある。その手段として懲罰(ムチ)それに信賞(あめ)が必要である。(飴については別の機会に)

懲罰としては、①特定の教室からの外出禁止。その場合、軍隊のように一人にさせる。(勿論監視をつける)②草むしり、皿洗い、掃除などをさせる。などはどうか。知恵のある人は法律に違反しないような方法を考えてほしい。

それと懲罰を与えて実施する人を直接担当している教師にはさせないことである。望むらくは、懲罰の可否、程度を決める人、実施する人を第3者的な人にやってもらうのはどうか。これは一般世間と同じである。裁判所、刑務所、警察は同じ部局がやらない(相互にある程度関連しているが…)。

それに教師は基本的に教えることに専念させるべきだ。今や塾でも殺人事件があるくらいだから塾内暴力や体罰もあるかもしれないが、学校より少ないだろう。それは、教師は基本的に教えることに専念しているからだ。給食費の徴収といった本来行政事務が行うべきことを教師にさせてはいけない。変なところで日本人はケチである。ちゃんと事務系職員を多く配置すればよい。人件費がかかるようであれば、その分教師の給与水準をさげる。ロシアや中国でも決して教員の給与水準は高くないが、今のところ、教員は日本に較べて尊敬されている。(韓国や台湾がどうなのか知りたいところである)ロシアや中国の教員は教えることに専念しているように見えるが…どうであろうか。

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April 17, 2007

「を」と「お」の違う地域

 NHKの武内陶子アナ(私ファンです!おはよう日本のようなオヤジぎゃぐ期待しています。)がメインキャスターをやられている「お元気ですか日本列島」という番組の中で、梅津正樹さんという方の「気になることば」というコーナーがある。

 これ、週刊文春の「お言葉ですが」に匹敵するくらい面白い。(武内アナのギャグも面白いですが…)

 先日といっても数ヶ月も前だが、「を」と「お」はたいてい日本語では現在区別していないと、梅津さん。早速ウチのヨメが異論を唱える。「私は区別している!」とのこと。「ホンマかいな」

 ところが、梅津さんも「ほとんどの地域ではいっしょですが、長野県と九州の一部では区別していますとのこと。(簡単な分布図が出ていました…)ウチのヨメさんが言っていたことは正しかったのだ…。(ちなみに私は区別できません…)

 さて、もし長野県と九州のこの現象が仮に文化的に関係があったとしたら、ついこの間までは、①安曇族が北部九州から糸魚川あたりに上陸して、姫川を遡って、安曇野に来たためか…。②出雲のタケミナカタが諏訪に逃げてきたためか。などといずれにしても九州と長野県というと「海路」(日本海)を考えるところである。ここらへん森先生の日本海文化論の無意識の影響なんだろうか…。

 ところが、もうひとつ九州と長野県を結ぶすごいルートがありそうなことに気が付いた。九州→瀬戸内→近畿→東海→信州?そうではない。(これはよく教科書的に弥生文化・稲作文化が伝わってきた道ということですでに人口に膾炙している。)これはこれですごいルートかもしれないが、それほど皆さん驚かないだろう。とくに近畿→東海→伊那谷であれば、古代東山道であるし、今なら中央道西宮線だ。木曽谷から入る道は木曽街道でこれまたそれほど意外ではないだろう。

 ここで私が指摘したいのもう一つの「山の道」である。厳密に言えば山の中の「谷の道」とでもいうべきか。明治時代ドイツからお雇い外国人としてきた地質学者ナウマンが日本列島を地質調査をして気が付いた。フォッサマグナを直交する形でおおよそ鹿島灘にはじまり、関東平野を横切り、秩父、信州を横断、静岡にでて、三重県、奈良県の山地を横断、和歌山県は紀ノ川に出て、四国を横断、九州の中央部を抜けて有明海にでるラインがある。これをナウマンは中央構造線と名づけたという。

 海路が発達する以前、あるいはなんらかの理由で海路を取れないときに、信州と九州を結ぶこの山の道(谷の道)が使われることがあったのではないか。

 今、信州と九州をこのルートで結ぶような歴史的事象をちょっと思いつかないが、南北朝時代に南朝方の宗良親王が秋葉街道を伝わって、伊勢や吉野と往来していたルートはまさにこのルートだ。
 
 『伊勢国風土記逸文』によると伊勢津彦が信濃の八風山に逃げたというが、この八風山、佐久の上信国境に近い八風山のことであるとすれば、これなどもこの中央構造線ルートを利用したとするのも一つの考えである。

 九州から信州までといかなくても、九州と四国、四国と近畿を結ぶ中央構造線が、文化的なルートであったことを示す事象は探せばあるのではないか。

 さて、このルートいつからはじまったのか。おそらく海路(日本海側の潟湖ネットワーク)より古い、日本列島の広域文化伝播ルートであったのか。どうしてそれがわかるか…。それは今後の研究の課題としたい。

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April 15, 2007

今日の勘介「お前は悪鬼に見えるぞ」

 大河ドラマ「風林火山」だいぶ佳境に入ってきました。

 今日の勘介、上原城落城してました。先日勘介博士こと信州考古学探検隊諏訪支部長K先生に御社宮司遺跡の現場に立ち、「あれが上原城、反対側の前宮に諏訪頼重の館、そしてその上が、杖突峠」という具合に現地で指導?していただいたので、今日の話はとても分かりやすかった!ありがとうK先生!

 ウチのヨメさんもすっかり勘介なるとドラマの中にはいっていってどうなることやら。すっかり勘介に同化しているようです。(なぜか諏訪御料人(由布姫)には同化できないとのこと…)

 テレビを見ているとヨメさん熱中しすぎて、息をしていないので、お陀仏?に成らないように注意せねば。

 そうこうしているうちに自分も風邪をひいたようで、熱が出てきた…。「風林火山」を見ている場合か…

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April 14, 2007

没ネタ「無仏」ではなかった平安時代の信濃

 今から思い出しても腹が立つが仕方がない。業務的に広報活動の一環として某紙にコラムを書くことを依頼されて、原稿にしたのだが、某紙の編集担当の方に行く前に、諸事情で、載せられなかった原稿を再録する。


  「無仏」ではなかった平安時代の信濃

 長野県立歴史館では、「古瓦からみた信濃の古代」と題して、飛鳥時代末から平安時代初期の瓦を一堂に集めてみた。今回の展示では、信濃では飛鳥時代に寺院が作られはじめ、奈良時代には各地に氏寺(豪族が建てた寺)や国分寺が相次いで建立された様子が瓦からもうかがえる。ところが平安時代になると、信濃では、瓦自体が減ってきて、つくられなくなってしまう。なぜなのか。豪雪のためだとかあるいは仏教が廃れたためだとかとなんとなく思いたくなる。

 たしかに、『六国史((りっこくし)』(国が編さんした正史)に「善光寺」のことは出てこない。信濃国分寺も中世になって異なる場所に再建された。さらには、鎌倉時代の『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』の「信濃国の聖(ひじり)の事」という説話に、奈良にいた信濃出身の僧が、信濃のような田舎の「無仏世界」には帰りたく無いと嘆く一節が記されている。

 奈良時代に隆盛を誇った信濃の仏教文化は、平安時代になると廃(すた)れてしまったのだろうか…。

 長野県考古学会長だった森嶋稔氏は、善光寺平には、経塚(きょうづか)(末法(まっぽう)の世に備えて仏典を埋めた塚)や経石(きょうせき)(石に仏典を書いたもの)が多い。千曲市に伝わる姨捨(おばすて)伝承はそもそも仏典の棄老(きろう)説話から来ているとし、信濃は非常に仏教的色彩の強い土地柄であり、平安時代の信濃の仏教が廃れていたとは思えないとする。

 とは言うものの、信濃の経塚の実態はよくわかっていない。経塚や経石の年代も平安時代と限定できるものは少なく、多くは中世まで下ると言う反論が出てくるかもしれない。

 だが、私は基本的に森嶋説に賛成である。たしかに経塚や経石の年代は平安時代とは言えないのかもしれないが、信濃の古代仏教文化、とくに平安時代には、寺院跡や瓦以外の仏教関係資料が多いことが、近年の発掘調査からはっきりしてきたからである。

 たとえば、長野市篠ノ井遺跡群では、平安時代と考えられる瓦塔(がとう)(高さ2~3mの焼物の塔)や塼仏(せんぶつ)(粘土を型におしあてて焼いた仏像)が出土している。塼仏はまだ県内で数点しか出土していないが、瓦塔は善光寺平だけでなく、上田や塩尻など県内各地でみつかっている。

 この他、佐久市聖原(ひじりはら)遺跡で平安時代前期の「佛」と書かれた土師器や千曲市社宮司(しゃぐうじ)遺跡では、阿弥陀如来と思われる仏像が描かれた平安時代末の六角木幢(ろっかくもくどう)(笠がつく六角柱状の木塔)が出土している。奈良時代の「官」的仏教文化が平安時代に多様になり、むしろ一般的な集落の中にも仏教が広がっていたと考えられるのである。


 某紙編集担当の手に渡る前に、内部的に没とされたのだが、その原因が実は、この文章のさらに元の原稿には、「奈良にいた信濃出身の僧が、信濃のような田舎の「無仏世界」には帰りたく無いと嘆く一節が記されている。」の後に「都会の文化にかぶれた信州人が自分の故郷を見下して、無仏といったのかもしれない云々。」という文言があったためのようだ。

 これはよく今もよくある話で、別にそれほど変な話ではないと思う。なにも信州だけでなく、室生犀星も「故郷は遠くにありて思うもの」と述べている。なかなか故郷を冷静に判断することは難しい。(とくに他所の世界を知ってしまった場合)

 だけどこの一節あまりにも有名だが、これをもって信濃の古代佛教文化が廃れたとするのは言いすぎであるし、さらに善光寺が廃れていたというような見方は巷間の俗説にしかすぎないと思うがどうだろうか。

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April 12, 2007

生き残ってほしい

 政治と学問。日本でも政治と学問は密接なかかわりがあるが、それでもある程度の研究上の自由は保障されていることは間違いない。

 一方、世界の中には、それほど自由でない国も多い。私の知り合いでも、政治への忠誠が疑われている人がいる。とにかく生き延びてほしい。安全地帯にいる私には無事を祈るしかない。

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April 08, 2007

今日の勘介「御神渡の時期は寒いぞ」

 今日のNHK大河ドラマ風林火山は全国統一地方選挙の影響で、7時15分からの開始であった。(そのことはどうでもよいが)。

 山本勘助が諏訪湖の御神渡(おみわたり)を見るシーンがあるが、諏訪は寒いと一応言っているが、勘介たちなんぼなんでもあのカッコでは寒いぞ!またスタジオで撮影したシーンなんだろうけれど、木が青々していて、雪もまったくない。諏訪が雪が少ないといっても厳寒の諏訪湖の雰囲気が出ていない…。NHK手を抜きすぎ(怒!)

 でも、今までの山本勘助のイメージをいい意味で裏切ってくれているので、番組自体は期待しています。職場にも勘助博士がいるので2倍楽しめます…

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April 06, 2007

河童のクゥと夏休み

 いよいよウチの河童が映画デビュー?今年の夏に公開予定「河童のクゥと夏休み」の主人公の「クゥ」は我が家の河童そっくりでびっくり…

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April 04, 2007

生活が勉強

 前の職場の送別会に出席できなかったが、その時に話そうと思っていた内容が、毎日の生活が勉強(研究)ということを前の職場で実感したことである。

 「食堂の講義」 復習が大事
 1年目の時におられたI館長には、昼休みの食堂や図書室などでいきなり話しかけられたことがとても勉強になった。I館長先生の話あちこち飛ぶので付いていくのが難しい。でもだんだん先生の話を聞くコツが分かってきた。

 割り箸を入れてある袋や反故紙の裏に先生の話の要点をメモっておき、後でノートにまとめてみる。これは本当に勉強になった。まとめたあと、出典やわからないことがあったら、後日先生に聞いてみる。(御宅にうかがったこともある)すると待ってましたとばかり一気に話が深化する。

 「門前の小僧習わぬ民話を話す」 隣の人の仕事をなんとなく聞いておく
 たまたま私の仕事スペースの隣が、民話データベースの方の作業場だったため、民話の話を断片的であるが、自然と耳にする。もともと民話は大好きなので、ついつい自分の仕事はそっちのけ?で民話データベースの話に聞きほれてしまう。1年間横で聞いていただけですが、本当に勉強になった。最近は、論文の味付けや枕に民話の話を入れるほど。これも勉強しようと思って聞いていたら、身につかなかったと思う。その他、民話データベースの作成が終了したあとは、某寺住職のH先生のありがたい?お話を聞けてこれまた思わぬ勉強になった。佛教学の常識、例えば『大正新脩大藏經』の使い方など。

 「放課後の講義」
 これまた1年間だけだったが、『吾妻鏡』と『古文書』(近世文書)の勉強会をそれぞれ週一でやってもらったが、これは本当にためになった。古文書は全く読めるようにはならなかったが、少なくとも嫌いではなくなった。

 まあ、この他にもいろいろあるが、自分にとって生活の中で実感されるものでないと研究は身につかないきがする。言語なんかとくにそうだ。生活の中で覚えたことは本当に身につく。社会人になってはじめて研究の意味がわかるような気がする。学校に長くいればよいというものじゃない。
 

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