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September 2006

September 23, 2006

大量埋蔵銭の意味

 中世に大量埋蔵(埋納・出土)銭というのがある。大きな甕などの焼き物に入っていることが多いが、木の箱や穴にサシで連ねて埋められていることがある。
 
 宗教的な意味を見出す網野説と単に備蓄や隠匿のためだとする説がある。私はどちらかというと後者である。ところで、貨幣経済がますます発達した近世になぜ大量埋蔵銭がないのだろうか。中世は戦乱の時代で、隠匿する必要があった。一旦どこかに避難していて、(大量の財貨を持ち出せないので)あとで帰ってきて掘り返すとというようなケースが多かったが、近世にはその必要がなくなったためかもしれない。

 また、銅銭一枚の価値が下落した(インフレ)ためであろう。中国でも宋あたりまでは銅銭はかなり流通の中心をなしていたが、元以降紙幣や銀の役割が大きくなり、銅銭は補助貨幣になっていく。日本でも近世になると金や銀の流通が基本で、銅銭は補助貨幣となっていたので、富の蓄積の象徴としては、俗に千両箱(これは小判なので金貨)などのように、銅銭以外の貨幣を蓄財し、富としたからであろうか。

 宗教的な意味、たとえば地中は他界であり、地中に埋めることによって神仏のものとされたとか。私には正直言ってその是非を判断する材料がない。遺跡の発掘に即していえば、縄文と中世は何しろ大きな竪穴が多い時代の気がする。(長野県だけか?)

 竪穴のことを土坑と呼ぶが、弥生や古墳には縄文のような竪穴(墓だったり貯蔵穴だったりするのだろうが)は、多くない。古代も竪穴住居跡や住居にともなう竪穴はあることはあるが、墓穴などは人口(竪穴住居跡の数の多さ)の割には、とても少ない。たぶん穴に埋められて埋葬される人は弥生時代以降平安時代まではごく一部の人だったと考えざるを得ない。(縄文は誰でも埋葬したために墓穴が多い)中世はどうだったのか。おそらく近世的なあり方への過渡期だったのではないか。(近世のお墓もこれまた墓穴としてかなりの数が認識される)

 中世も墓穴は縄文ほどは多くは無いが、古代の墓穴よりは墓域がはっきりしてくる。火葬墓あり土葬墓ありといろんなものがあるが、これは宗教や階層を示しているのだろうか。そのほか住居でも墓でもない竪穴が多いのが、中世の遺跡の気がする。埋蔵銭については、基本的には隠匿埋納説に組みしたいが、それだけではすまない意味がありそうな気もしていて、網野説は捨てがたい。

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September 18, 2006

考古学からみた信州と北海道

 「考古学からみた信州と北海道」と題したが、信州と北海道とが特別関係があるというようなことをいいたいのではない。北海道の人が古代や中世の信州の遺跡の状況をみると、北海道の特殊性と考えられていたようなことが、実は東日本、とくに信州にもあったり、逆に北海道では普通と考えられていたことが特筆すべきことであったりするという比較の対象としての「信州と北海道」という意味である。

 まず、中世北海道では在地の焼物がなくなり、本州から陶磁器を輸入していた。事実であるが、これを特段ネガティブにとらえる必要はない。と思う。なぜなら信州でも、古代後半から在地の焼物文化は廃れ、おそらく鎌倉時代は非常に限定されたものしかなかったようだ。だからといって陶磁器がないのではなく、周辺地域、東海や北陸から多量に「輸入」しているのである。私の見た感じでは、古代の各地域(国や郡)レベルでなるべく自給自足させ、また仮に特産品があっても都に集めてから分配するというような比較的統制社会的な感じから、縄文時代並み?にレッセフェールとなったため、その土地にとってより有利な産品に特化したような気がする。

 それから、北海道の古代に竪穴式住居跡が多くでるが、これは信州とて同じである。竪穴式住居(建物)群が一般集落から消えてなくなるのは、信州でも城下町が形成されるころで、中世末でも竪穴住居群が掘立柱建物群と共存していた。文化の後進性といった問題ではなく、環境に適応した結果(冬寒い)であろう。
 
 一方驚かされるのが、北海道の古代・中世の鉄製品の多さである。信州も決して東日本の中で少ない地域ではないが、質・量ともに北海道の遺跡出土の鉄製品の優越性には驚かされる。これは近世の漆器にもいえる。中世の鋳物の鉄製品や近世の漆器は、必ずしも北海道産とは考えられていないようだが、こうしたものを多量に購入できる財力があったのだ。渡島半島に限定されるのかもしれないが、大量埋蔵銭の存在は、北海道の特色になりつつある。(信州北部も大量埋蔵銭集中地域である)
 
 ただ、遺跡における銭の多寡は、経済的に発達していたか否かの一つの目安にしかすぎない。たしかにある時期までおそらく戦国時代あたりまでは、実際大量の銭を所有していたことが富の象徴だったかもしれないが、どこかで、銭(銅銭)=冨ではなくなっていったのではないか。これは少しテーマが違うので別の機会に。
 

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September 17, 2006

桑原千代子著『わがマンロー伝』を読む

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 本書のもととなった大塚製薬の雑誌は、大学に寄贈されていたので、一応学生時代に読んだ筈なのだが、あまり記憶にない。しかし、北海道で問題のマンロー館の跡を見て、この本を再び読んでみると新たな感動がある。

 イギリス・スコットランド出身の医師であり、日本で考古学およびアイヌ研究を行ったことで有名なニール・ゴードン・マンローの伝記である。船医としてインドやアジアに渡ってきたマンローは、横浜ゼネラルホスピタルの院長、その後軽井沢サナトリウムの院長をしながら、日本の旧石器文化の存在を追及する。後年、考古学から民族学的な方面に興味が移り、北海道二風谷に定住し、アイヌの医療に献身しながら、アイヌ文化を研究した。

 と書くと『不屈の医師マンロー』という偉人伝のように見えるがそうではない。むしろ読み終えて、山本夏彦翁の『無想庵物語』を思い出した。マンローは医者であり学者であるので、「失敗した」文学者武林無想庵とは何も共通性はないようだが、どこか通じるところがある。

 日常の市民生活にはいろいろ問題があるが、良き小市民ではない。(二人とも本人の人柄のせいも有るだろうし、時代的背景のせいもあろう)しかし、文学なり学問(あるいは医療)においては、最後まで情熱を失わなかった。作品が良ければ、作者の本当のことはあまり知らないほうが良いという。マンローの肉親に愛情が薄い点やかつての夫人たち(4度結婚している)に対する冷酷な仕打ちなどを知るとそうかと思う。しかし、それでも、本書からはそれを補って余るマンローの学問に対する情熱とマンロー自身の魅力を感じるとることができた。

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September 04, 2006

男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋

NHK-BS2で「男はつらいよ」シリーズの後半やっています。山本カントクさすが映画監督だけのことあって、見所がシロートの私達とはちがうようです。今後も解説楽しみにしています。

さて、「寅次郎あじさいの恋」マドンナはいしだあゆみさん。いつものパターンと違って、マドンナが積極的。けれども夏彦翁『一寸先はヤミ』「タンマ君は永遠です」よろしく寅さんの恋は成就しない。

京都ロケは、五条坂周辺が舞台の一つでした。河合寛治郎記念館のすぐ近くに下宿したことがあるので、ピーンとくるなつかしい景色がいくつも出てきました。また京都に行ってみたくなりますね。年内にいけるかな?

華やかな京都とものがなしい宮津の対比がいいですね。(宮津の方ごめんなさい。現実の宮津はそれほどものがなしくはないのですが、あくまで映画の印象です)

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信州の馬は何を食べていたか

「信州の馬は何を食べていたか」 馬に詳しいI先生にお聞きする。とくに日本列島に馬が導入されたころ、何を主に食べていたのだろうか。古代、いやそれ以降も、前近代において日本には牧草らしいものはない。

まあ古墳時代には稲作が始まっていたので、ワラには困らないが、ワラだけだと当然便秘になるという。当然当時配合飼料のようなものはない。

全国的にいえるかは別として、信州の古代の牧において、馬たちが食べていたものと考えられる候補の一つがクマザサだそうだ。なるほどビタミンC(馬にビタミンCが必要かは知らないが)豊富な食べ物だ。

クマザサは六十年に一度程度花を咲かせて実を結ぶのだが、実を拾わないと、ネズミが食べて大繁殖し、その年はいいが、翌年食べるものがないから木をかじってしまうので、クマザサの実を拾って、ネズミの大繁殖を抑えるそうだ。

牧のある高原地帯はよいが、そうでないところでは何を食べさせていたのか。遺跡から雑草として出ているもののなかにヒントがあったりして…。

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September 03, 2006

ひょうたんから駒 契丹・女真の文献

 8月に東京の国立国会図書館まで行き、いろんな漢籍資料を集める。今回は貴重書はあまりなく(貴重書の複写は時間的にできなかったのでメモだけ)、○○叢書に掲載されているような比較的メジャーな文献とはいえ、量が多かったので、結構大変だった…。

 こんなものが考古学に役立つのか…?根が東洋史や漢文好きというのはあるので、そんなに嫌ではないが、どこでどう結びついてくるのかよくわからない。とくに女真人や契丹人がどんな作物を栽培したり、特産物はなんであるかなど。日本の考古学じゃ使えないか。でもまあ、河童が利用すると言うことなので、黙々とやってきました。

 ところが、ひょんなことからそのときも複写した「盛京通史」「契丹国志」「大金国志」の出番が出てきそうです。信州と中国東北部は作物や特産品で少し似ているものもありそうです。厳密に言えば北海道と中国東北部が対比できるかもしれませんが、中国東北部でも遼東半島あたりは信州に近いようです。

 例えば、馬が何を食べていたかなんて、なかなか日本の文献には出てこないので、日本で言えば古代・中近世の資料ですけどとても参考になりそうです。

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