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April 17, 2005

松代はアガタだった。

 長野市南部に松代(まつしろ)町がある。江戸時代真田氏が本拠をおいた松代城がある。この「松代」というのは江戸時代になってついた名のようで、(待城、松城→松代城になったとも)それ以前の武田氏の根拠地であった時は、海津(貝津)城とよばれていた。さて、海津は武田氏が築いた。名前を信玄公がつけたと言う証拠はないらしいが、非常に教養のあった信玄公が、千曲川の日本海水系における水運に注目して「(日本)海(につながる)津」と「甲斐の津」をかけたのではないかと夢想する。
 さて、海津と名づけられるより前は寺尾と呼ばれていたらしいが、これは上野国から来た寺尾氏にちなむらしい。寺尾の前はどうやって呼ばれていたか。はるかな昔、延喜式(平安時代)の頃は英多(えいた・あがた)と呼ばれていたらしい。「えいた」という読みはともかく、これを「あがた」と読んでいたとすれば、信濃の歴史を考える上で非常に重要なヒントがここにある。
 古代史の教科書的な解説によれば「あがた(縣)」は「みやけ(屯倉)」と並んでで大和朝廷(王権)が支配した「地方」の直轄地的な場所とされる。
 このこうしたアガタ地名は信濃に散見される。松代以外に長野市県町(県庁周辺)、松本市県(旧制松本高校周辺)がある。上田地方の郡を「小県(ちいさがた)」と読むのも大和朝廷(王権)と結びつける考え方(一志茂樹先生の説)があった。ただ、こうした「あがた」地名を必ずしも大和王権に結び付けなくても良いという考え方が諏訪や上田の郷土史の研究にあることを知った(諏訪大社の勢力範囲を大県、外県、内県などと呼ぶ)ので、私自身も「あがた」=大和朝廷(王権)の直轄地とはいえないと思うが、どちらにしても当時の要衝の地であったことは間違いないだろう。つまり、俗に松代、長野、松本などは中近世あるいは古代から出発したと思いがちだが、その要衝としての機能は古墳時代あたりまで遡る可能性がありはしないか。
 松代はいわずもがな千曲川寺尾の船着場に隣接して発達し、長野市県町は裾花川が古代に分岐していた場所、松本市県は薄(すすき)川の川べり、上田小県(ちいさがた)の諏訪形(すわがた・諏訪県が転じたという説もある)は、千曲川に面した土地である。つまり、古墳時代の王権の支配というのが、領域的な支配ではなく、こうした要衝(川の津や陸上交通の拠点)であったとするとようやくその実態がおぼろげながら私にも少しは見えてきた気がする。

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