『魏晋の気風および文章と薬および酒の関係』
リンク: 魯迅作品『魏晋の気風および文章と薬および酒の関係』.
有名な魯迅の評論である。「古いところを研究するには、資料が少なすぎるきらいがあるし、新しいところを研究するには、今度は資料が多すぎるのです。」中国文学史のことを語っているが、これは歴史一般にいえることである。
また、「歴史書の記載と論断には、しばしば非常にあてにならない、信用できないところが、相当にあります、というのは誰でも知っていることですが、ある朝廷が長く続いた場合には、かならずその歴史書に立派な人物がたくさんでてくるが、短い場合にはほとんど立派な人物はでてこないのです。どうしてでしょうか? それは年代が長く続いた場合には、歴史を書くのは同朝人でありますから、当然同朝の人物をもちあげるが、年代が短い場合には、歴史を書くのは別の朝代の人になりますから、甚だ自由に異朝の人物をけなすのであります。」
魯迅という人の短編は言い得て妙というか、グサッとくるものがある。「毒」もある。他にも「正史」の類は一見字句の校訂が正しく信用できそうであるが、肝心のことが(時の為政者に都合が悪いと)削られているので、多少字句の錯誤はあっても「稗史」「野史」の類も読まねばならないという。
これらはみな魯迅の発見ではなく、中国人の智慧のようだ。しかし、異邦人にこういうわかりやすい言葉で残してくれた魯迅の業績は不朽である。
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Comments
はじめまして。
私も学部の時、読みました。確かに中国人が蓄積として知っている事実なのでしょうが、それをきちんと明言化したこと、そしてをれをご指摘のように、わかりやすい形にしてくれた点は私も敬服しました。
一方で、ある程度中国文人達が共通して持っていたであろう理解をなぜ、明言しなくてはしなくてはならなかったのか?と思ってます。たしか1927年7月、広州での講演でしたよね。
Posted by: るうるう | May 03, 2005 11:54 AM
こんにちは るうるうさん
人間は本当のことこそなかなか言えない生き物だからではないでしょうか(受け売りですけど…)
文明が発達すればするほど偽善も発達するのは避けられないというのはどうでしょうか。
Posted by: かもしかみち | May 04, 2005 08:58 AM